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八ヶ村用水記念碑

余慶橋の交差点を、白沢川に沿って、庄内川の方向に200mほど歩くと、道はやがて
庄内川の堤防道路に突きあたり、左にとれば堤防道路を松河橋の方向に向かい、
右にとれば白沢川を渡って愛知霊園へと道が続きます。

その堤防道路との突きあたりの脇に「八ヶ村用水導水路竣工記念碑」が立っています。
下の地図で赤マルのところです。

八ヶ村用水

八ヶ村用水20120826-1


裏面にこの記念碑の由来が書かれています。
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八ヶ村用水導水路は昭和二十五年八月庄内川
大出水のため殆んど壊滅に等しい被害を受け
た。時に関係者一同善後策研究の結果国費の
補助を得て恒久的復旧工事の実施を決意し八
ヶ村治水水利期成同盟会を結成市の委託工事
として翌二十六年三月着工した。尓来関係当
局及び地元民必死の努力により幾多の難関を
超え昭和二十九年九月竣工した。この間丹羽
兵助会長の絶大なる尽力の結果県直営の巨費
を投じ床止堰堤復旧工事の完成を見両者相俟
って用水取入の完璧を期することを得地元民
多年の宿望と幸福を達成したのである。
昭和三十五年三月建之
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八ヶ村用水20120813-2



はるか上流より、庄内川を分流させ、最後にこの水門に導いています。

八ヶ村用水20120813-3



導かれた水は庄内川の堤防の下を抜け、ここで向きをかえて庄内川と並行して流れます。

八ヶ村用水20120813-4

解説:守山郷土史研究会会誌「もりやま」第5号より
八ヶ村用水は昭和25年の水害のため大きな被害を受けた後、昭和29年に初めて恒久的な堰堤、導水路が
建設された。その記念碑である。八ヶ村とは川村、大森垣外、牛牧、大永寺、金屋坊、守山、瀬古、
幸心をいう。八ヶ村用水のはじまりは分からないが、八ヶ村用水と一体ともいうべき「御用水」は
寛文3(1663)年創設といわれている。「御用水」とは庄内川の水を名古屋城内まで導いた、
名古屋最古の上水道といわれているものである。
天保12年の川村村絵図を参照すると、左図の如く、御用水の杁の上流に六ヶ村用水の杁が見える。
御定井(ごじょうい)とは「川通りに石を並べ、杭木を打、せき留、みずかさを持せ、用水をかけ候」
施設である。(戦後まで30センチ大の玉石が高く積まれた、定井と思われる跡が残っていたとも聞いた。)
明治9年、御用水廃止に伴って、六ヶ村用水と御用水の水源を合口し、入樋位置を川村川脇に改めた。
これにより文字通り八ヶ村用水となったわけである。杁樋の場所はその後も何度か替えられたようだ。
今よりはるかに川底の高かった庄内川は絶えず洪水をひきおこし、土俵と杭木で苦労して築いた堰が、
その晩一夜で流されてしまうことも珍しいことではなかった。
堰堤が流されるとその度に、川村の土木委員は自転車で飛び回って八ヶ村から人出を集めねばならなかった。
早春まだ冷たい川の水に、首までつかって杭木を打ち込む仕事は決して楽なことではない。
(江戸時代の「徇行記」にも、「川村定井破損ノ時手伝人足出ス」と八つの村の記事にある)
碑文「地元民多年の宿望と幸福を達成した」とは八ヶ村の人々の、そのままの気持ちであったろう。
八ヶ村用水灌漑面積 約二十町歩余(昭和60)


八ヶ村用水村絵図

↑ 村絵図:この中での着色と、かっこ書きの文字入れは私が行いました。
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[ 2012/08/23 21:50 ] 石碑 | TB(0) | コメント(0)
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