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しだみ道(街道への誘い)

川本文彦氏著、街道への誘い~ふるさと守山物語~は、当ブログにとっては宝の山であり、
ネタ帳そのものといった存在です。

そこから物語をひとつご紹介します、と言えば品が良いのですが、それは単なるパクリだろと
言われると、ちと答えに窮するところでもあります。

志段味への道・今昔


大森の東のはずれ、尾張旭市との市域境に、むかし瀬戸電の「霞ヶ丘駅」があり、
ここから、志段味に抜ける間道に「しだみ道」という道があった。
江戸時代の古図や大正9年の地図にも、そのように書かれているから間違いないはずである。
だが、当時本当にそんな道があったのか、と時々疑問に思うことがある。

それは今から50年ほど前のこと。
敗戦も間近に迫ったころ、守山もたびたび空襲に遭った。近所に住んでいたE君も、
疎開のためこの道が通る山奥に、掘っ立て小屋のような小さな一軒家を建て移り住んでいったので、
一度遊びに行ったことがある。
そのとき、この細い道は両側から身の丈ほどに伸びた熊笹が覆いかぶさり、
両手で掻き分け掻き分け、訪ねて行った。
人がほとんど通らない、また通れるような道ではなかったし、人里もなかった。
こんな道なき道を古図や地図に、わざわざ「しだみ道」と記してある。不思議に思われた。

しかし、父母が生きていた頃、父からは、こんな話を聞いたことがある。
たぶん、明治の末か大正の初めの頃のことであろう。
父が幼かった時、父親に連れられ、この「しだみ道」を通って志段味から大森へ来る途中では、
銀狐や狸に会うこともあった。また、親子連れの猪の姿を見かけることもあった。
特に夕方など、狐の鳴き声を聞くと淋しくなり、足早に駆け抜けていった。
道に沿って小川や沢がところどころあるため、いろいろな動物たちが水を求めて集まって
きたのだろうと言っていた。

大森に着いて、そこから名古屋へ行くには、瀬戸自動鉄道の蒸気道車に乗っていった。
ときどき坂道で立ち往生し、乗客が後ろから押している姿を見かけたと話していた。
母からは、大正の中ごろ、志段味の父のもとへ嫁ぐとき、今の尾張旭市の庄中から人力車に乗って、
この道を通ってきたし、また、その後、実家への初帰りのときは、姑につれられ着物の裾をまくり、
この道を歩いて帰ったと言っていた。

したがって、父母から聞いたこの道は、当時の人の往来も多かったと推察される。
私の記憶に残る同じ道とは思えず、道路に対するイメージが相当かけ離れているようである・・・・・。
その原因は、大正9年と昭和22年の地図を比較すると、はっきり分かる。
それは、大正末から昭和にかけて志段味から尾張旭の庄中を経て四軒家に至る新しいバイパスが
出来たことであり、昭和22年の地図にはこの道が描かれている。
新設された道へと人の流れが移り変わり、「しだみ道」を人が通らなくなったから・・・・・と
考えられる。

その後・・・・・戦後50年、今またこの辺りも大きく変化してきた。
辺鄙な山中と思われたこの付近も、家屋が建ち並び、細く曲がりくねった道の両側には
ビッシリと家が建っている。昔の山の中の寂しい一本道は完全に消失して、市街地の街路へと
変わってきた。明治・大正・昭和・平成と四代にわたり、これほど大きく変化をした道路も、
まず他にないであろう。

「しだみ道」沿いに廃駅になった古い「霞ヶ丘」の駅舎が唯一残っていたが、
これもつい最近取り壊された。


1997年5月31日 風媒社刊
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[ 2012/07/25 20:32 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)
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