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休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(2)

20160211下津尾マップ(2)
▲ 私のウォーキングデータ
上の地図において、赤いラインが私の実際に歩いたコースで、スマートフォンiPhoneのアプリ
「Geographica」でデータ記録したものです。堰堤を離れて、しばらく堤防道路を歩いた後、
リュウゼツランの傍らに建つ「下津尾の渡し趾」で河川敷に降りました。


20160211(8).jpg
▲ 堤防道路から河川敷への降り口
河川敷への降り口に立って庄内川を見渡すと、往時はどこに船着場があったのか、そんな
ロマン、探究心が自然と沸き起こります。
ここで下津尾の渡しについて言及した資料より、その情景を転記してみましょう。

郷土誌かすがい 第20号(昭和58年9月15日発行 第20号 ホームページ版)
郷土探訪-春日井をとおる街道7 庄内川の渡し-下津尾の渡し(桜井芳昭氏 春日井郷土史研究会会員)
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下津尾にあり、竜泉寺への近道であった。八田や下原から上条・関田を経て下津尾へ至る道を
竜泉寺街道と呼んでいた。竜泉寺古記録には、「毎年五月十八日に熱田梵天と観音梵天の二本と
神馬二匹を下津村から出して竜泉寺まで引き上げる。また、正月七日には観音堂前で下津尾村の
社人が神楽祝詞をあげ五穀祭りを行う。」とある。このことから下津尾と竜泉寺は古くから関係が
深かったことがわかる。
ここの渡しの川舟は舟腹の横板の枚数で二枚腹とか三腹と呼ばれ、ここは木曽川から払い下げられた
二枚腹が多かったという。昭和13年頃までは竜泉寺の節分や初観音の時は特別利用客が多いので、
前日に部落総出で仮橋を架け、当日は橋の通行料として片道2銭(往復3銭)を取って渡した。
ここの渡しは市内で最も最近(昭和40年)まで続き、渡舟場跡には当時をしのぶ「下津尾渡し跡」の
標柱が建てられている。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第2号(昭和58年)
庄内川の「渡し」をたずねて 久野冴子さん
下津尾の渡し
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庄内川の右岸、ちょうど龍泉寺の対岸の堤防のきわに水神塔と並んで「下津尾の渡し跡」と刻まれた碑がある。
二年程前、自転車でこの付近を通ったとき、偶然この碑が目にとまり、ああここに渡し場があ
ったのかとなぜかとっくに忘れたものを呼び覚まされた思いがしたものだ。
今度再び当地を訪れ、堤防下に旧家があったので「渡し」について何かわかるかも知れないと思い、
訪問したところ、ご老人が応対に出てこられた。何と幸運なことにこの方が下津尾で最後の渡し守をして
いらっしゃった林泰一さんであった。以下林泰一さんの談話である。「下津尾の渡し船は笹舟と云う川舟で、
木曽川から払い下げてもらったものである。舟腹の板の数で二枚腹とか三枚腹とか云われたが、
大体二枚腹の舟が多かった。対岸の龍泉寺への往来に利用された。畠仕事をしているとき(乗る時は)
お願いしますと声をかけられ、龍泉寺の方からは大声でオーイと呼ばれると舟を出しに渡し場にかけつけ
たものである。
渡しは古くからあったが、大正の初めから昭和の5年頃まで父(寓三郎)が渡し守をつとめ、
舟賃は片道二銭、往復三銭であった。父の死後自分が引き継いだ。
平常乗客は一日4,5人ぐらいであったが、龍泉寺の節分会、初観音(旧1月18日)、毎月7日の七福神、
21日の弘法さんの日は大そうにぎわった。節分には夜半からお詣りする人が多いため、前日に
部落総出で仮橋をかけ、当日は部落の当番が、橋の通行料(舟賃と同じ)をとって渡した。
あくる日また部落総出で橋をこわしてしまう。
昭和13年頃松川橋ができてから、仮橋を渡る人も少なくなり、また勤め人も多くなったので
架橋は行われなくなった。それ以後は節分と初観音の時に吉根から船を二艘借りてきて渡しを行った。
その時、渡し守はくじ引できめたものである。
戦後、龍泉寺へお詣りする人が減るとともに、舟を利用する人も少なくなったが、
それでも昭和40年頃までつづけていた。このころの舟賃は片道20円往復30円であったと思う。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第9号(1990年)
東春日井郡川村の郷(上)-大正時代の年中行事・生活点描- 滝本庄吾氏
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龍泉寺の真裏には、もう一つ渡舟場があった。
これを「下津尾の渡し」という。これは江戸時代に下津尾村(現在春日井市下津町)と称して
いた村の渡しであった。この村は龍泉寺の真裏にあって庄内川を挟んだ対岸に位置し、
下流の隣村、中切村との村境近くに渡し場を持ち(堰堤より少し上流)、庄内川を渡ったあと、
川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた
。江戸時代の『尾張年中行
事絵抄』にも、正月六日夜「龍泉寺、福拾祭。これは吉根村と下津尾村の人々、本堂に集会。
下津尾の社人来りて、宝前に於て祝調、祭文。」とみえる。
このように昔から下津尾の人々は、龍泉寺との深い関わりを持ち、龍泉寺で行なわれた
各種行事のたびに、自分村の舟を利用していたのである。そのずっと後の昭和三十年代となっても、
暖かい時期には八ケ村用水の堰堤の上を水につかって歩いて渡り、節分の日などの水が
冷たい時期には、舟を出して渡っていた。昭和四十年代になると、自家用自動車が普及し、
下津尾の渡しは姿を消していた。こうしたことから、守山区との関わりを持った庄内川の舟渡しの、
最後となったのは下津尾の渡しであったといえよう。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第12号(1993年)
吉根ムラ散歩の記(11)-川向うの村々-、徳田百合子さん
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下津にも渡しがあった。野田や桜佐の場合とちがって、わりに最近まで竜泉寺への参詣人に利用された。
祭日には板橋も架けられたが、昭和13年頃松川橋ができてからは中止となり、節分と初観音の日に
吉根から船を借りてきて渡しを行うていどであった。しかし昭和40年頃にはそれも絶えたという。
堤防道路すぐ横に「下津尾の渡し跡」と刻まれた石碑がたっているが、そこから下りてゆくと広い河川敷一
面に野菜や花瓶として耕作されていて、川の流れている所までは大分距離がある。
この河川敷の中にもかっては家があったという話を竜泉寺の林一政氏からきいた。
林氏の五代前迄はその中州に住んでみえたのだが、明治の初め頃本家は下津の方へ移転し、
分家が竜泉寺の門前へ引越してきたとのこと。今では交際が絶えたが、その本家の林さんの家は、
現在では伊藤という方が後を継いでみえるそうで、詳しいことは泰岳寺できいた方がよくわかるのでは
ないかとおっしゃった。
明治の地図をよく見ると中州に二戸の家があって、そこから下津への道が点線で示されている。
更にもう一つ古い文化10年の川絵図のことを思い出す。そこにも川縁に二戸の農家が描かれていた。
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続く
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[ 2016/02/14 23:00 ] | TB(0) | コメント(0)
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