矢田川橋を渡った瀬戸街道は登り勾配に守山区に入り、やがて「どんどん庵」のところで旧道が分かれます。
ところがこの旧道、40m行って右に折れ、さらに50m行って現在の瀬戸街道に再び合流する
短い区間の旧道です。このスタイルは瀬戸街道・大森でも見られます。
かっての瀬戸街道はあちらこちらに折れ曲がりがあったようです。
旧道分岐点にお社があります写真のようにブロック塀に囲まれ、入口が鎖で施錠されているため、どちらのお社か
わかりませんでした。
お社のクローズアップ近在の天王社さまが朱塗りで、覆い屋根の下に鎮座している形態なのに対して、
塗装が無く、お社がそのまま白日のもとにさらされています。
旧道側から瀬戸街道に向かって撮影施錠されている様子が見られます。
ブロック塀の左側面に貼られた案内板は「ふれあい広場」と書かれています。
瀬戸街道から旧道側に向かって撮影大きな献灯があります。これが決め手となりました。
これには「昭和11年 9月吉日」の銘が刻まれています。
こちら側には「下町一同」と刻まれています。守山郷土史研究会会報「もりやま」第6号、1987年の特集「守山の石造物(その2)」-社寺奉納物-に
よれば、この銘文は「守山下町天王社」と完全一致しました。
次の文献は、名古屋区史シリーズ「守山区の歴史」、平成4年ですが、この中に赤いラインを
引いた箇所がこの天王社さんに関係するところです。

この文献はいくつかの重要事項を語っています。
・元々は鍛冶屋の南にあったこと
・それが屋根神になったこと
・瀬戸街道と旧道の角に移っていること
これの検証のために、赤いラインの前段に書かれている鍛冶屋さん(畑中氏)を訪ねました。
現ご当主は文中にある畑中権吉氏のお孫さんでいらっしゃいました。
ご幼少の頃のご記憶として、鍛冶屋(鉄工所)の隣に確かに屋根神さんがあったそうです。
今ではその屋根神さんがあったお宅は取り壊されて無いそうですし、家業の鉄工所も
代替わりしてからは廃業されたそうです。
畑中さんからは鳥羽見の天王社さんの場所を教えていただきました。
感謝
スポンサーサイト