
【元陸軍兵器補給廠守山分廠関係綴の索引①】
先日ご紹介の「元陸軍兵器補給廠守山分廠関係綴」の表紙は昭和21年当時の表紙で、
後年になって上記の別表紙と索引が追加されて保管されています。それが何年にそう
なったかは知りませんし、それが本題ではありませんので、ここでは「後年」とさせて
いただきます。
ここからの本稿はこの目次の中から適当に話題を選択して行きたいと思います。

【森孝新田補給廠跡地積調】
目次の索引番号1は「森孝新田補給廠跡地積調」から始まっています。
残念ながら年月日は入っていませんが、「戦争が終わったんだからさっさと返してくれよ」との
旧地主さんからの声はとても大きかったと容易に想像されます。
他方で物資を米軍に引き渡すための業務や、名古屋陸軍補給廠本廠との残務整理、
横行したであろう略奪行為など、敗戦の焦燥感の中、どこから手を付けたらよいのか
大変なご苦労があったことと愚考します。
ともあれ現代風な言葉で言えば、まずは現状を把握しないことには何も始まりませんから、
役場としては地積調べに取り掛かったのでしょう。東海財務局、法務局の登記簿や、
役場の固定資産台帳などで接収前の地積を調べたのが上記の資料かも知れません。
これが各地番ごとに境界杭でも入っていれば、復元することができたのかも知れませんが、
よしんば接収前に杭が存在していたとしても、そんな邪魔なものは引き抜かれていたはずなので
始める前から相当な困難が予見されていたことでしょう。
さてここでもう一度、先日ご紹介のわが恩師の著作を引用しましょう。
小林 元 著 「香流川物語」
-----------ここから引用-------------
戦後この兵器補給廠の跡地は払い下げられて開墾が進められ、今はその
ほとんどが住宅地になってしまいましたが、
昔の「甲、乙、丙」の地籍が
ここでは混乱してわからなくなってしまい、とうとう新しい地籍を作って、「元補」と
呼ぶことになりました。すなわち「元補」とは「元補給廠跡」のことで、あまり
ロマンチックな由来ではありません。
-----------ここまで引用-------------
地積関係で妥協をする人はまずないでしょう。二束三文で接収されたなら、
タダ同然の価格で払い下げを要求して当然で、タダ同然なら一坪でも多くほしいものです。
「混乱してわからなくなってしまい」というのはウソではなかったとしても、とても全員が
納得するような復元はもはや困難で、方便という部分の方が大きかったのでは
ないでしょうか?
「戦後この兵器補給廠の跡地は払い下げられて開墾が進められ」なのですから、
一度リセットして耕地整理し、旧地権者が納得する形での決着にかじ取りした可能性が
高そうです。
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