
【香流川物語 小林 元 著】
「元補」について一般的な書籍で広く世に知らしめたのは上の画像の
「香流川物語」であろうと思います。
著者は小林 元 氏で著作当時は奥付によれば名古屋市立大森中学校教諭と
なっています。
[ 2012/07/14 23:51 ] 小林 元先生のこと に少し書きましたが、小林先生は
私の猪高中学のときに在職されていて、直接教えをいただくことはなかったのですが
何かの機会に私のクラスの教壇に臨時で立たれたことがあり、社会科の先生なのに
すらすらと英文を板書されたことがあり、大変驚いた記憶があります。
後年になって、守山郷土史研究会で私が師と仰ぐお一人の徳田さんから、
小林先生の妹さんと徳田さんが中学の同級生であったことを教えていただき
それにも驚いたものです。
話がふくらみましたが、小林先生は「香流川物語」の中で元補について次のように
お書きになっています。
-----------ここから引用-------------
戦争もおしつまった昭和18年ごろのある日、森孝新田の人々は猪子石の月心寺に
集合するよう、陸軍から命令を受けました。月心寺には猪子石原や庄中向の人々も
来ていましたが、そこで人々は森孝新田を中心にして約13万坪の土地が陸軍に
よって接収されることを知らされました。当時軍の命令に不服を申し立てることは
不可能でした。人々は接収の書類に印をおし、わずかなサキイカと酒一合を
もらってすごすごと帰らざるを得ませんでした。接収された猪子石原の新引山から
森孝新田の西部と、森孝新田の中部から庄中向にかけての土地には、陸軍兵器
補給廠の建設が急ピッチで進められ、2か所の用地は広い道路で結ばれました。
現在八劔神社の前の道路が広くなっているのはその跡です。ここでは各地の
工場から集められた軍用のトラックや戦車などを検査して戦場に送り出す作業が
行われ、建設のための司令部になった月心寺では、夜中まで兵士が出入りし
非常な迷惑であったそうです。
戦後この兵器補給廠の跡地は払い下げられて開墾が進められ、今はその
ほとんどが住宅地になってしまいましたが、昔の「甲、乙、丙」の地籍が
ここでは混乱してわからなくなってしまい、とうとう新しい地籍を作って、「元補」と
呼ぶことになりました。すなわち「元補」とは「元補給廠跡」のことで、あまり
ロマンチックな由来ではありません。
-----------ここまで引用-------------
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