
【大森陣地要図トレース】
東寺別院のお話の続きに入る前に、戦時中の大森八龍のあたりを
眺めてみましょう。この図は私が守山郷土史研究会会報「もりやま」に寄稿するに
あたって作図した、高射砲第125連隊第4大隊第17中隊(大森照空隊)の布陣を
現在の地図にトレースしたものです。照空隊とは、文字どおり夜間、サーチライトで
天空を照らす部隊のことです。矢田、大幸の三菱発動機工場への夜間爆撃に
対する防衛網の最前線の役割を果たしていました。
現在の金城学院大学のあたりに関連施設がたくさん集まっていました。
このトレース図は戦後の米軍による空中写真と、これら国有資産の保全を
委託された守山町の資料から作成したものです。

【大森附近陣地敷地要図】
これが冒頭のトレース図の元になった陣地要図です。
これは戦後まもなく、これら国有資産が奪略されないよう、国(財務局)が守山町に
対して保全を委託した時に、守山町の担当者が財務局で書き写してきたものです。
この書き写し地図の中で表題のすぐ下に「卍」の文字がありますが
わかるでしょうか?敷地という文字の間あたりの下になります。
これが東寺別院あるいは、湯場ではないかと思います。

【翠松園、大森附近の陣地展開図】
この写真は、戦後まもなく米軍によって撮影された空中写真から翠松園、大森に
展開していた高射砲、照空の部隊を解析したものです。
敷地要図で記されていた「卍」はB~Cを結んだあたりやや上に写り込んでいます。
上の空中写真をダブルクリックして大きくしてご覧になられてください。
民家にしては大きすぎる建物がわかりますか?
喜多山で瀬戸電を降りて、二つ池の間の道を通り抜け、坂道をてくてくと歩きます。
道なりにしばらく歩くと、やがて道路は大きな建物で三叉路となっていますね。
昭和初期の瀬戸電のパンフで道が東寺別院まで通じているように描かれていたことと
よく合致しています。

【蓬莱七福神の絵葉書】
再び絵葉書に戻りましょう。
偶然なのか絵葉書の右上に写り込んでしまった東寺別院らしき建物の一部と、
たぶんそこへ向かって伸びているであろう広い坂道が見られますね。
さらに細かく見ますと、中央で人々が集まっている広場から左上に向けて階段道が
あるようです。それとこの広場から、幅の広い坂道を挟んで反対側にも道があるようです。
つまりこの広場と湯場は坂道と交差する道路の角に立地しているようにも見えます。
このあたりを手掛かりに、先ほどの米軍空中写真を眺めてみますと、たしかにB-C間に
坂道と交差する道があって、その北西角に建物がありますし、その建物から上(北)に
向かって狭い道まで写っています。

【絵葉書の撮影ポイント】
もう一度米軍空中写真と絵葉書を並べて検討をしてみます。
まず絵葉書の右上に写り込んでいた大きな建物の左端から、坂道にある交差点まで
赤い線を引きます。ついで絵葉書の湯場と思われる建物の角が手前になって、かつ
湯場が画面中央やや左になるように2番目の赤い線を引きます。その線が交わるあたり、
かなり大雑把ですが、そのあたりが撮影ポイントだと思われます。
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詳しい情報有り難うございます。二つ池が何処にあるかも知らない私ですが、トレース上を喜多山方面から辿ってみました。あのお地蔵さまは、七福神めぐり案内図の東寺の位置になるようですね。そして、湯場、眺望の良い所に思えますが、当時の方達は何を眺められたのでしょうか?七福神めぐり、今では馴染みのない事のように思えますが、戦前は大変な賑わいだったとの事、今でも回られる方々が居られるのでしょうか?ある事からそれに繋がる過去に思いを馳せる、歴史って本当に楽しいですね。