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わが町 守山区 TOP  >  2020年11月

元補(7)索引を見る

守山分廠索引2(20201123) 守山分廠索引3(20200323)

【元陸軍兵器補給廠守山分廠関係綴の索引②、③】

 元陸軍兵器補給廠守山分廠関係綴の索引は全部で3ページにまとめられています。
ところがつぶさに見てゆきますと、その3ページがすべて補給廠関係のものではなく、
いわゆる旧軍関係というくくりであることがわかります。

 例えばこんなタイトルが入っています。

索引番号20 昭和20年9月17日 建築物保管委託書
 これなどはタイトルだけを見たのでは重要度が低いとしか思えないのですが、内容は大違いで、
かつて守山区に展開した高射砲陣地の建築物保管委託なのです。日付を見ていただくと、
8月15日の終戦から約1か月後の文書であることがわかります。
 文書の内容としては、守山町の職員が県庁に呼ばれ、戦時中に守山区に展開していた
高射砲第125連隊の連隊長を務めていた大中正光氏が作成した「陣地要図」等をもとに
国の財産たる建築物などの保管を委託されるものとなっています。
 私はこの資料を最大のよりどころとして守山郷土史研究会会報「もりやま」34号(2015)に
「守山区の高射砲陣地 -空中写真に見る守山の現代史-」と題して寄稿しております。

索引番号24 昭和21年6月8日 元名古屋造兵廠守山気球隊バラック建1棟(60坪)等
 これは名古屋造兵廠に気象隊があり、守山に展開していたことを示唆する記述です。

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[ 2020/11/23 21:42 ] 戦跡 | TB(0) | コメント(0)

元補(6)戦後の地積調べ

守山分廠関係綴表紙 守山分廠索引1(20201122)

【元陸軍兵器補給廠守山分廠関係綴の索引①】

 先日ご紹介の「元陸軍兵器補給廠守山分廠関係綴」の表紙は昭和21年当時の表紙で、
後年になって上記の別表紙と索引が追加されて保管されています。それが何年にそう
なったかは知りませんし、それが本題ではありませんので、ここでは「後年」とさせて
いただきます。

 ここからの本稿はこの目次の中から適当に話題を選択して行きたいと思います。



森孝新田 補給廠跡地積調1(20201122)
【森孝新田補給廠跡地積調】

 目次の索引番号1は「森孝新田補給廠跡地積調」から始まっています。
残念ながら年月日は入っていませんが、「戦争が終わったんだからさっさと返してくれよ」との
旧地主さんからの声はとても大きかったと容易に想像されます。

 他方で物資を米軍に引き渡すための業務や、名古屋陸軍補給廠本廠との残務整理、
横行したであろう略奪行為など、敗戦の焦燥感の中、どこから手を付けたらよいのか
大変なご苦労があったことと愚考します。

 ともあれ現代風な言葉で言えば、まずは現状を把握しないことには何も始まりませんから、
役場としては地積調べに取り掛かったのでしょう。東海財務局、法務局の登記簿や、
役場の固定資産台帳などで接収前の地積を調べたのが上記の資料かも知れません。
これが各地番ごとに境界杭でも入っていれば、復元することができたのかも知れませんが、
よしんば接収前に杭が存在していたとしても、そんな邪魔なものは引き抜かれていたはずなので
始める前から相当な困難が予見されていたことでしょう。

 さてここでもう一度、先日ご紹介のわが恩師の著作を引用しましょう。
小林 元 著 「香流川物語」

-----------ここから引用-------------
戦後この兵器補給廠の跡地は払い下げられて開墾が進められ、今はその
ほとんどが住宅地になってしまいましたが、昔の「甲、乙、丙」の地籍が
ここでは混乱してわからなくなってしまい、とうとう新しい地籍を作って、「元補」と
呼ぶことになりました。
すなわち「元補」とは「元補給廠跡」のことで、あまり
ロマンチックな由来ではありません。
-----------ここまで引用-------------


 地積関係で妥協をする人はまずないでしょう。二束三文で接収されたなら、
タダ同然の価格で払い下げを要求して当然で、タダ同然なら一坪でも多くほしいものです。
「混乱してわからなくなってしまい」というのはウソではなかったとしても、とても全員が
納得するような復元はもはや困難で、方便という部分の方が大きかったのでは
ないでしょうか?

 「戦後この兵器補給廠の跡地は払い下げられて開墾が進められ」なのですから、
一度リセットして耕地整理し、旧地権者が納得する形での決着にかじ取りした可能性が
高そうです。
[ 2020/11/23 06:00 ] 戦跡 | TB(0) | コメント(0)

マメナシのこと

ええとこ守山下見20130506-3

関連:[ 2013/05/06 19:13 ]史跡散策会「竜泉寺界隈めぐり」の下見

5月ゴールデンウイーク頃のマメナシの様子です。

 マメナシについてはそれ単独での鑑賞会、現地説明会が催行されるほど守山区では
保全、ピーアールに官民挙げて努めている植物です。

 最近のことは知らないので、違ったことを書くかも知れませんが、私の思い違いが
あったので忘れないうちに記しておこうと思います。

 「小幡緑地本園のマメナシ自生地の保全と保護の現状」と題する石原先生の論文で、
守山区におけるマメナシの発見経緯を次のように要約されてみえます。

-----ここより引用-----

 名古屋市守山区では,マメナシが現四日市市の東阿倉
川で発見されてから71年後の1973年(昭和48年)9月に,
県立千種高校英語教諭大岡幸雄が守山大森八竜でマメナ
シを発見され,1974年(昭和49年)2月には,大森御膳
洞の蛭池(弥吉池)でマメナシの自生地の大群落を発見
された(大岡,私信).

----ここまで引用----

 ここだけの引用では、守山区におけるマメナシの発見は1973年ということかと
早合点しそうになりますが、この文章は「大岡幸雄が守山大森八竜でマメナシを
発見」したのが1973年(昭和48年)9月と解釈するのが適当なのです。
つまり、守山区で発見されたのはいつかはわからないけど、1973年が最初では
ないかも知れないと・・・。
なに?みんなそう思っている、余計なお節介だって?

 では知らなかったのは私だけということにしてお話をすすめさせていただきます。

 もちろん植物ですから、大昔からそこに自生していたと考えるのが自然ですので、
大岡先生がご報告をされたのが最初であって、近くの人にとっては春になると
桜のようなキレイな花の咲く樹がたくさんあることは周知のことであったろうことは
容易に想像がつきます。

 ではそういう屁理屈は横に置いておき、植物学的に守山のマメナシが認知
されていたのはいったいいつ頃からなのかと調べてみました。
ただし重要な前提条件として、マメナシ=イヌナシとして話を進めます。

愛知県史跡名勝天然記念物調査報告 第一 天然記念物其一表紙

愛知県史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第1

 これは国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる資料です。
この中に「東春日井郡守山町內ニ於ケル犬梨ノ分布」という項目があり、
次のように解説されています。

3.東春日井郡守山町內ニ於ケル犬梨ノ分布
犬梨(以下、イヌナシ)の名称
 イヌナシは明治41年牧野富太郎氏によりて始めて植物学会に発表せられたる
新種にして学名を pirus dimorphophylla Mak と言う。その当時採集せられたる
ものは実に三重県海蔵村の産にして方言を「いんなし」と言い、守山附近にては
山梨、澤梨あるいは往々「がんたち」の名を呼ばるるもの即ちこれなり。

中略

分布区割
 今、守山町付近にあるイヌナシ散布の状態を便利のため7区に分かちて
ここに記録すべし。

甲 大字小幡字南島3248番 愛宕社内のもの3株
乙 小幡原東端城山の西北に接する地
丙 守山町大字大森垣外字城山1631番の20 林
丁 大字小幡字稲荷南4457番地 林
戊 大字小幡字大屋敷第3800番
己 大字小幡字西浦市場にあるもの
庚 小幡原中に散見するもの

イヌナシの価値
 前陳のごとくイヌナシはわが邦の特産なるのみならず、実にわが県に誇るべき
樹種なるをもって植物学上において尊重すべきものなるのみならず、果実栽培家は
ナシ、リンゴを接ぎ木するときその母樹となしてすこぶる有益にかつ古来黄色の
染料に供したりしところの有益の品種
たり。

 愛知県によってこの報告書ができたのは大正12年3月のことで、文中にもあった
ように牧野富太郎によって学会で新種発表されたのが明治41年となっています。
したがって発表からわずか10年内で愛知県の天然記念物に指定されていたことに
なるわけです。

 そして驚くべきは、イヌナシが接ぎ木を取る時の母樹として有益とか、黄色の
染料に利用されたりと認識されていたこと。いま、守山区では「なごや生物多様性」の
観点からマメナシの保全、環境改善を情報発信し、多くの共感が得られているところ
かと思いますが、もしかしたら明治、大正の昔には、接ぎ木の母樹や染料として
乱獲が進み、かっては守山のどこにでも雑木として分布していたマメナシが愛知県の
天然記念物に指定された上記の7区も含めて消滅し、研究者の間では守山区に
おいては絶滅したと思われていたところに、大岡先生が教会までの空き時間を
たまたま散策に費やしていて研究者には未知の群落を発見され、発表をされた。

 もしかしたらそんな構図だったのかなと、晩秋にしては暖かすぎる日和に
うつらうつらしながら、とりとめもないことを書き留めてみました。 
[ 2020/11/22 11:10 ] 自然観察 | TB(0) | コメント(6)

元補(5)空中写真

USA-M148-A-7-171補給廠20201121

【米軍空中写真 昭和21年】

 昨日の記事から・・・
> 中央に東西(左右)にのびる幅の広い道路と、左端の陸上競技場の
> トラックのようなエリアをご記憶ください。

 名古屋陸軍兵器補給廠守山分廠の全体はこんな感じでした。
中央に幅の広い道路と、左右(東西)に展開する周回道路のようなエリアです。
中央の広い道路の周辺は八剱神社と森孝新田の集落があって、軍部としても
その全部を接収というわけには行かなかったのかも知れませんね。

 この米軍による空中写真の撮影が昭和21年5月で、昨日の土地宝典が
昭和30年の出版でしたから、10年を足らずして西側の周回道路のようなエリアは
土地区画整理が進められ、地名が甲、乙、丙、・・・から元補に変わっていることに
なります。

 この空中写真からではちょっとわかりづらいかも知れませんが、
中央に幅の広い連絡道路があって、その南側を並行して出来町通が走り、
更にその南に香流川の蛇行が見られます。

出来町通りとは「愛知県道215号田籾名古屋線」のことで、いわゆる
ミッキーの愛称の基幹バスが走るバスレーンのある通りのことです。

 出来町通りと香流川の間に、田畑ではなく、集落のように見えるエリアが
写っていますがお分かりになりますか?
ほぼ南北に細い道が抜けているところですね。実はこの集落のような
部分に高射砲陣地が築かれていました。高射機関銃ではなくて、高射砲の
方です。おそらくこの兵器補給廠と、はるか後方の三菱発動機矢田・大幸
製作所を防衛任務としていたのだと思います。

 この辺りも守山探検隊のまちあるきイベントのコースで歩きましたが、
高射砲陣地の痕跡が現存している訳でもなく、説明ポイントとしては採用
しませんでした。冒頭の空中写真は守山探検隊が森孝コースを検討して
いたときに、私が月例の定例会でスタッフの方々に配布したものです。
[ 2020/11/21 17:07 ] 戦跡 | TB(0) | コメント(0)

元補(4)甲乙丙から元補へ

元補土地宝典20201120

【土地宝典 昭和30年版】

 土地の地積を確認するには正確には法務局へ行って地籍図を閲覧するわけですが、
案件の内容によっては店(会社)でぱらぱらっと開けば用事が済む場合も多く、各地区
ごとに土地宝典という地籍図集が刊行されていました。

 上の画像は守山市の昭和30年版です。場所は元補給廠の西半分のあたりです。
中央に東西(左右)にのびる幅の広い道路と、左端の陸上競技のトラックのような
エリアをご記憶ください。

 そして地名は、縦横がキレイに区画されたあたりは「元補」で、何がなんだか複雑に
入り組んでいる場所は森孝新田の乙(おつ)とか丙(へい)の町名になっているのが
わかります。

 さてここでもう一度、先日ご紹介のわが恩師の著作を引用しましょう。
小林 元 著 「香流川物語」

-----------ここから引用-------------
戦後この兵器補給廠の跡地は払い下げられて開墾が進められ、今はその
ほとんどが住宅地になってしまいましたが、昔の「甲、乙、丙」の地籍
ここでは混乱してわからなくなってしまい、とうとう新しい地籍を作って、「元補」と
呼ぶことになりました。すなわち「元補」とは「元補給廠跡」のことで、あまり
ロマンチックな由来ではありません。
-----------ここまで引用-------------

 小林先生がお書きになられていたのは、この土地宝典のような状態の
ことだったのです。どうして中央のあたりが乙とか丙のままだったのかって?
それは端的にいえば人家がほとんどなくて、戦後すぐに区画整理ができた
ところが元補になって、集落を抱えてなかなか区画整理の話がまとまらず、
とうとうこの昭和30年の段階で区画整理をしなかったところはそのまま
残ったことを意味しています。森孝には2020年の現代でも、なんとなく懐かしい
守山区の原風景を感じる場所が残されていますが、そんな場所ですね。

 ちなみに守山探検隊の森孝コースのときには畑や野菜の無人販売所が
あってとても癒されたという感想をいただきました。
[ 2020/11/20 21:54 ] 戦跡 | TB(0) | コメント(0)

元補(3)守山分廠関係綴

守山分廠関係綴原簿表紙

【元陸軍兵器補給廠守山分廠関係綴】

 2014年7月21日、守山探検隊の当時会長だった故小島さんのお供で、名古屋
市政資料館の中にある名古屋市の公文書館を訪れました。小島さんはご執心
だった戦時中のB29の墜落について、墜落した場所の特定のために大区、小区の
資料を探されていました。私は守山探検隊の森孝コースの参考にと、元補すなわち
元陸軍兵器補給廠の資料を、二人別々に探しておりました。

 公文書館の収蔵品の検索PCで守山区に関連する資料を片っ端に調べていた時、
なんと補給廠そのものの簿冊を発見しました。書庫から出していただいたその資料を
見て飛び上がらないばかりに驚いて、私たち以外に閲覧者がいないことをいいことに
大きな声で小島さんに声を掛けてしまいました。

 それが上の画像の簿冊です。昭和21年1月起と書かれていますから、終戦後わずか
半年足らずでの起案文書になります。ページをめくると、補給廠跡地積調から始まって
幾度となく各種の払い下げ申請が国(東海財務局)と県になされた草案や下書きが
累々と続いていました。

 かって、[ 2014/08/28 10:51 ] 守山に存在したか?陸軍気球隊 と題して書いた
のもこの簿冊の中に綴られていました。名古屋市の他の区の場合、この手の資料は
とうの昔に廃棄されたか、外部の開かずの倉庫に放り込まれて二度と日の目を
見ないような扱いになっているかも知れないのに、よくぞ守山区!とひとしきりそんな
会話を公文書館の職員さんと交わしました。職員さんが仰るには、名守合併の時に
たまたま守山町にこの簿冊が残っていて、それを後日公文書館が引き取ったのだろう
とのことでした。

 小島さんは「どうだね、これで論文が書けるかね?」と声をかけてくださいました。
不肖の弟子はいまだに何ら行動を起こしておりませんが、その間には小島さんが
天国に旅立たれ、この件に関する私の記憶も薄らいでいることを危惧して、とりとめも
なく、この記録を展開することにしました。
[ 2020/11/19 21:00 ] 戦跡 | TB(0) | コメント(0)

元補(2)香流川物語

香流川物語20201118

【香流川物語 小林 元 著】

「元補」について一般的な書籍で広く世に知らしめたのは上の画像の
「香流川物語」であろうと思います。
著者は小林 元 氏で著作当時は奥付によれば名古屋市立大森中学校教諭と
なっています。
[ 2012/07/14 23:51 ] 小林 元先生のこと に少し書きましたが、小林先生は
私の猪高中学のときに在職されていて、直接教えをいただくことはなかったのですが
何かの機会に私のクラスの教壇に臨時で立たれたことがあり、社会科の先生なのに
すらすらと英文を板書されたことがあり、大変驚いた記憶があります。

後年になって、守山郷土史研究会で私が師と仰ぐお一人の徳田さんから、
小林先生の妹さんと徳田さんが中学の同級生であったことを教えていただき
それにも驚いたものです。

話がふくらみましたが、小林先生は「香流川物語」の中で元補について次のように
お書きになっています。

-----------ここから引用-------------
戦争もおしつまった昭和18年ごろのある日、森孝新田の人々は猪子石の月心寺に
集合するよう、陸軍から命令を受けました。月心寺には猪子石原や庄中向の人々も
来ていましたが、そこで人々は森孝新田を中心にして約13万坪の土地が陸軍に
よって接収されることを知らされました。当時軍の命令に不服を申し立てることは
不可能でした。人々は接収の書類に印をおし、わずかなサキイカと酒一合を
もらってすごすごと帰らざるを得ませんでした。接収された猪子石原の新引山から
森孝新田の西部と、森孝新田の中部から庄中向にかけての土地には、陸軍兵器
補給廠の建設が急ピッチで進められ、2か所の用地は広い道路で結ばれました。
現在八劔神社の前の道路が広くなっているのはその跡です。ここでは各地の
工場から集められた軍用のトラックや戦車などを検査して戦場に送り出す作業が
行われ、建設のための司令部になった月心寺では、夜中まで兵士が出入りし
非常な迷惑であったそうです。
 戦後この兵器補給廠の跡地は払い下げられて開墾が進められ、今はその
ほとんどが住宅地になってしまいましたが、昔の「甲、乙、丙」の地籍が
ここでは混乱してわからなくなってしまい、とうとう新しい地籍を作って、「元補」と
呼ぶことになりました。すなわち「元補」とは「元補給廠跡」のことで、あまり
ロマンチックな由来ではありません。
-----------ここまで引用-------------



[ 2020/11/18 22:06 ] 戦跡 | TB(0) | コメント(0)

元補(1)コースマップ

森孝新田コース(最終版)ブログ用

【守山探検隊平成26年度コースマップ】

 守山区役所の現、地域力推進室主管の守山探検隊が、平成26年度に開催した
「森孝・四軒家地区散策コース」のマップです。実際にはこの画像をもとに印刷所が
アレンジしたものが配布され、今でも区役所で配架されているわけですが、その
元になる画像データです。(貴重でも何でもありませんが・・・)

 今回からのブログのお話は、このマップのど真ん中に茶色で塗りつぶしたエリア、
すなわち「元補(もとほ)」についてです。

 現在は「元補」と言われても守山元補郵便局とか出来町通り元補交差点くらいしか、
公共的なもので元補を名乗るものはありません。地元の人でも若い方々は元補の
由来を知らないのではないでしょうか?

 元補とは元補給廠の略称なのです。
正確には、名古屋陸軍兵器補給廠守山分廠と言ったそうです。軍事用語は分かったようで
分かりづらいですね。陸軍で言ったところの補給廠とは、現在の物流センターのことです。
工場(陸軍工廠)や外注で製造した軍需物資を補給廠に集め、保管し、求めに応じて
各部隊に送り出す拠点だったのです。

 そんなお話を何回かに分けてお送りできたらと思います。
どんなタイミングでも構いませんので、「お前、間違っているぞ!」とか「もう少し
詳しく or わかりやすく」などご意見をお待ちしています。
[ 2020/11/13 22:38 ] 戦跡 | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神まとめ

大名古屋七七福神スタンプ展 表紙
【大名古屋七七福神 集印帖】

大名古屋七七福神の集印帖をもとに戦前の名古屋における七福神巡りの
一端をひもといてきました。ここで「まとめ」としてシリーズを締めくくりたいと思います。



大名古屋七七福神スタンプ展主催の印
【名古屋趣味のスタンプ会】

この集印帖(スタンプ帳)には書籍物にあるような発行年月日や発行者の名称、印は
まったくありません。もしかしたら帳面自体は普通の市販の汎用品を流用していたのかも
しれません。あるいはこのスタンプ帳は公式のものなのか、個人が購入して押し歩いた
ものなのかも定かではありません。
ともあれ、主催者はこのスタンプから「名古屋趣味のスタンプ会」とみてよろしいかと思います。

七七福神なのですから、全部まわると49のスタンプが押されていることになりますが、
数えてみると確かに49個のスタンプがありますが、次のような事情により49か所には
なっていませんでした。

東郊七福神の福禄寿の位置には弁財天が押されていてマイナス1枚。
宝生七福神の寿老人の位置には熱田七福神の宝船が押されてマイナス1枚。
蓬莱七福神の寿老人の位置には名古屋趣味のスタンプ会が押されてマイナス1枚
合計3枚が欠印となっています。

逆に、熱田七福神は宝船も押されていて番外が1枚プラスになっています。



七七福神連合会納経
【七七福神連合会納経】

欠印の状態にもかかわらず、「○○寺のスタンプが無い」と判断できたのは、
実は上掲画像の別の資料があったからです。
タイトルを「七七福神連合会納経」という和とじのもので、各寺院のご住職によって
あらかじめコース名、七福神名、所在地名、山号、寺院名などが1ページに
1寺院ずつ揮毫されたものです。
これを参照することで、スタンプの欠印寺院名を補完することが可能となりました。

またこの七七福神連合会納経は書籍としての体裁がとられていて、そこには
昭和10年発行、発行者は八角堂法蔵寺七七福神連合会常務・大澤眞應師のお名前、
印刷所および頒布所・東洋巌新社、後援・新愛知新聞社と書かれています。

愛知学院大学教養部紀要 61巻2号に収録の「名古屋の寺院に関する木版資料に
ついて(12)
」には次のように書かれています。

『さらに翌年3月(註:昭和10年3月)には、印刷所の東洋巌新社(中区矢場町)から
納経帳の『大名古屋八十八ケ所御納経』が発行された。この納経帳は札所寺院の住職に
よって番号、本尊、所在地、山号、寺号が揮毫されており、番外に大名古屋三大師の
寺院も加わっている。
 一方、納経帳とともに札所でスタンプを押印するスタンプ帳も発行されていた。
ただし、その発行年月日は明らかでない。「大名古屋八十八ケ所遍路スタンプ」と
題する折本帳となっており、札所の遍路スタンプがカラフルなカラーで押印されている
(後略)』

従いまして、納経帳は「大名古屋八十八ケ所納経帳」が先行販売され、その半年後くらいに
「大名古屋七七福神連合会納経帳」が発行されただろうことがわかります。
昭和9年から10年頃の新愛知新聞を丹念に読めば、広告・宣伝も含めてもっと
わかりそうですが、それはまたの機会にいたします。

[ 2020/11/10 12:00 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(2)

蓬莱七福神

蓬莱七福神スタンプ

【大名古屋七七福神 蓬莱七福神】

大名古屋七七福神巡りの最後は、わが町守山区の蓬莱七福神です。
蓬莱七福神のスタンプの特徴は、上が尖った栗の実のような形の中に、
七福神ゆかりの品物がモチーフであしらわれています。

七七福神の他のスタンプには無かった大きな特徴は、蓬莱七福神の名称が
角印で入っているところです。

長命寺さんと龍泉寺さんのスタンプが押されていなかったのはなんとも
残念なことです。
[ 2020/11/09 12:00 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

金城七福神

金城七福神スタンプ

【大名古屋七七福神 金城七福神】

金城七福神、その名の通り名古屋城地区の七福神巡りになります。
このスタンプ当時、昭和10年ごろはまだ名古屋市に編入されておらず、
西春日井郡の村々だったところもあります。

スタンプは基本的に真ん丸で、右上のごく一部に名古屋城天守閣の金鯱が
枠から飛び出ている配置になっています。また上から三分の一ほどを占める
名古屋城は色の違いだけで、七福神すべてに共通するデザインになっています。

特異なのは七福神のお姿、ご尊顔が一つもなく、すべてシンボル的なお持物を
左に配していることです。
[ 2020/11/08 14:36 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

呼続七福神

呼続七福神スタンプ

【大名古屋七七福神 呼続七福神】

名古屋市南部の呼続七福神のスタンプは真ん丸で、他の七福神コースの
ような一部が枠からはみ出るデザインにはなっていません。

円形の中心部は楕円に窓を開け、七福神をほぼ立像で描いています。
今回はスタンプの切り抜きを真円で行い、隣から覆いかぶさって押印
されている部分はそのまま残して並べてみました。

スタンプの背景の紙の色が黄ばんでいるのは、スタンプ帖自体が戦前のもので
いわゆる古色化しているからです。その当時はスタンプ帖とはいわず集印帖という
名称が一般的だったかと思われます。
[ 2020/11/07 15:27 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

熱田七福神

熱田七福神スタンプ

【大名古屋七七福神 熱田七福神】

非常に特徴のあるスタンプです。
蓮型の枠を宝剣が貫いて、左右に勾玉を配しています。
真ん中に丸窓をあけて、そこに笑顔の七福神のお顔です。

七福神なのに八つのスタンプなのですが、下段左端は宝船になっています。
言わば番外別格あつかいですね。
守山区だと龍泉寺さまがこれに相当します。
[ 2020/11/06 21:45 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

宝生七福神

宝生七福神スタンプ

【大名古屋七七福神 宝生七福神】

大名古屋七七福神のスタンプはジグザグに、一部が重なりながら押されています。
そんなわけで、ここに画像を掲載しているスタンプも日食のように一部欠けの状態に
なっています。

今回は宝生七福神です。
中区から中村区のコースのようです。
寿老人のページにはなぜか押されていなかったので、これまたコンプリかなわずと
なってしまいました。

宝生七福神のスタンプはクリの実のような、天頂部がツンと尖った形をしています。
そしてどこか一か所を円周部からはみ出させるデザインも共通しています。
七福神は特徴的なお持物に重ねてほぼ全身を描いています。
[ 2020/11/04 22:36 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

東郊七福神

東郊七福神スタンプ

【大名古屋七七福神 東郊七福神】

スタンプ帖の右端下段に位置します。
「東郊」の町名は今でも昭和区に東郊通として残っています。

東郊七福神のスタンプだけを並べてみると、基本的には円形なのですが、
ごく一部を円周からはみ出すデザインになっていることがわかります。

緑色のスタンプが薄く不鮮明なのは開運七福神と同じ傾向にあります。
おそらくスタンプ帖を作った時の、緑色のスタンプ台がインク切れでそう
なっていたのでしょう。

東郊七福神の福禄寿に相当するスタンプは、弁財天のスタンプが
福禄寿のページにも押されていたため採集不能となっています。
もしかしたら、このスタンプ帖は押印ミスのため売り物にならなくて
死蔵されていたものなのかも知れません。
[ 2020/11/03 16:16 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)
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プロフィール

管理人:加藤
守山区在住の歴史、自然、イベントファンです。ご連絡は画面右側のメールフォームよりお願いします。記事に対するご意見、ご感想は各記事の最下行にあるコメントを押してから入力されてください。コメントは公開と非公開を選べます。お名前欄が空欄の場合は、私がお人違いをするかも知れませんので、ご記入をお願いいたします。

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