
【現地にある解説パネル】
このパネルには次のように書かれています。
「大井ダムができる前、この弁天島は木曽川中心部に向かう小高い山だったとされる。
弁財天はこの山に江戸時代中期頃に祭祀されたといわれる。その後、大井ダムの
開発に伴い現在のように小島の形になり、幾多の護岸工事によって守られ現在に
至っている。現在も河川の治水や音楽、弁財、福智、延寿、除災、得勝を司られて
いるといわれる。」

【勝川勝満山大師殿絵葉書4枚】
この画像は昭和初期に勝川駅からほど近いところに大仏様が建立されたときの
絵葉書です。弘法大師と不動明王それに弁財天の3像と、全体の様子の4枚組です。
かっては田畑の中でよく目だったことでしょうが、現在では高い建物が多く、大仏様と
いえども下調べをしないで闇雲に探しても見つけるのは容易ではありません。
さて、この中の弁財天さまのお話です。
現在のお寺には弘法大師と不動明王は存在していますが、弁財天だけはどれだけ
探しても見つかりません。絵葉書をよく見ても背景が微妙に違うので、少なくとも
並んで建立されていたのではなかったようです。

【4枚組絵葉書から弁財天のみ】
私はこの4枚組の絵葉書を数年前に入手していました。それはただ単に郷土史の
関連の収集であって、自分のテリトリー外まで手を伸ばそうという野心があった訳
ではありません。私も入手した時にチラっと一瞥したのみで、そのままアルバムに
保管したほどですから。
それが約1年前、お若いけれども気鋭のコンクリート像研究家の書かれた、勝川駅前
勝川勝満山大師殿に関するネット記事を拝見して、とっさに私の保有している
絵葉書のことだと直感し、連絡をとらせていただいたのが今回の恵那峡行きの
動機につながっています。
つづく