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八ヶ村用水の取水口を考える

20160227歩行ルート(1)
▲ 休日日課のウォーキングルート
いままで何度も古道を見つけられなくて、行く手を阻まれていた、八ヶ村用水の取水口から
先のルートを、なんとか歩くことができて、念願がかないました。


関連記事
2012年8月26日 八ヶ村用水


八ヶ村用水取水口と堰堤
▲ 中切の堰堤と、八ヶ村用水の取水口
この堰堤でダムのように水深を稼いで取水します。
今は農閑期なので取水口は閉じられていて、水は取り込んでいません。


欠下古道(1)20160117
▲ ここが古道の入り口なんだが・・・
1月17日、真冬で雑草、雑木がもっとも少ない時期のはずなのにこのありさま。
それでも10mくらい踏み込みましたが、踏み固められた古道の部分を見失って
このときは断念しました。矢印は入り口の痕跡で、ここから踏み込みましたが
途中で諦めました。


20160227歩行ルート(2)
▲ 2月27日にはこのとおりスッキリ!
これは完全に伐採が入った後です。
たとえ道があったにしても冬以外は有害な鳥獣や虫、マムシ、野犬に遭遇する危険が
ありますから、絶対に立ち入りできません。
これを逃したらと思うと、勇気をもって突撃しました。

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[ 2016/02/27 22:22 ] 用水路 | TB(0) | コメント(0)

渡し舟からの裏参道を考える(3)

明治時代の地形図裏参道
▲ ②の南向きルートを考える

前記事
休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(2)

前記事より引用
守山郷土史研究会会報「もりやま」第9号(1990年)
東春日井郡川村の郷(上)-大正時代の年中行事・生活点描- 滝本庄吾氏
---------------------------------------------------------------------------
庄内川を渡ったあと、川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた。
---------------------------------------------------------------------------

さて、河岸段丘の窪みが、「V字谷状」になった山すそのことであるならば、
V字の東側が龍泉寺山で、西側を川村山と比定することは難しくないと思います。


南ルート④
▲ 南側の参詣ルートか?
明らかに霊園の域外にのびる坂道が続いています。坂の先を見上げると竹林の
向こう側に車道のガードレールが見えます。


南ルート20160227(1)
▲ 竹林の中へと坂道は続いています
道は竹林の奥で突き当たりになり、右に折れています。


南ルート20160227(2)
▲ 竹林の中の坂道はさらに上へと登り、道なりに左に曲がります
このあたりの竹は大変手入れが行き届いていて、とてもすがすがしい道になっています。


南ルート20160227(3)
▲ 竹林から出て、先が開けてきました


南ルート20160227(4)
▲ 見覚えのある場所に出ました!
ここは昔の道の集散地で、写真中央の八十八か所の仏様のところを画面奥に向かって3本の道、
画面左右にも道、そして私がいままでご紹介した坂道、この6本が現存しています。


名古屋市都市計画図S39-S43 20160227
▲ 名古屋市都市計画情報提供サービスより、S39-S43の地図
赤い矢印を付した場所が、上の写真の場所です。
渡し舟からの参詣ルートはこれで間違いはないでしょう。
ただ現況とは随分違ってきていますが。

下津尾の渡しの舟着場から、渡し舟のルート、そして龍泉寺さんへの参詣ルートを
シリーズで考察してみました。このシリーズはひとまずこれで終わりとします。

ところで上の都市計画図で八ヶ村用水の取水口が現在と異なっている事に
お気づきになられましたでしょうか?

いずれまた稿を改めて検討してみたいと思います。
[ 2016/02/22 20:57 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

渡し舟からの裏参道を考える(2)

明治時代の地形図裏参道
▲ 渡し舟からの参詣ルートを着色
河岸段丘の窪みは「V字谷状」になった山すそのことで、先人が仰せのところの、
「龍泉寺の山」と「川村の山」との境界とも考えられます。


東ルート20160227(1)
▲ ①の東よりのルートを想う
こんな感じで坂を上って行ったんでしょうね。奉納する神馬もこのルートだったかは
ちょっとわからないですが。


東ルート20160219(2)
▲ 東よりのルートを登りきったところ


東ルート20160219(3)
▲ 道はここで石垣沿いに、直角に曲がります


東ルート20160219(4)
▲ 登りきってから下を振り向くと
ここは、霊園の案内図が立っているところです
もしかしたら、大昔からの参詣ルートがほぼそのままに現在の階段道になっているのかも
知れません。

[ 2016/02/21 18:14 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

龍泉寺 渡し舟からの裏参道を考える

明治時代の地形図原図
▲ 再び明治時代の地形図
ここで再び明治時代の地形図を引っ張り出して、より精細に検討してみます。
等高線と道路を慎重に見極めて、あらためて赤いラインで描いてみました。


明治時代の地形図裏参道
▲ 渡し舟からの裏参道想像図
龍泉寺霊園が昭和50年に開園する前までの、いわば渡し舟からの裏参道がどうで
あったかを赤いラインで示しました。
渡し舟で川砂の堆積した洲に渡してもらい、そこを最短距離で横切り、もしかしたら
大昔の川湊であったかも知れない河岸段丘の窪みに到着します。
そこから明治時代の地形図では二つのルートが描かれていて、一つは①と付した東の
ルート、いまひとつは②と付した南に向かうルートになります。


龍泉寺20160219④

龍泉寺20160219⑤
▲ 龍泉寺霊園の西の端 竜神井戸
おそらくこの辺りが「河岸段丘の窪み」だったのではないかと思います。
ここから東に本堂の方へ向かう急斜面のルートと、南に向かうルートの2本の参詣道が
あったのか、もうすでに墓地見取図に答えが出ていますが、自分の目で確認してみました。


東ルート
▲ 垣根の向こうに竜神井戸の屋根、その延長上に本殿に向かう階段道
なるほど、なるほど、この階段道が古道とは限りませんが、こんなイメージだとしたら
さほど急峻な坂道ともいえないかもしれませんね。


南ルート①
▲ 南回りのルート
霊園の西の端、ガードレール沿いに上り坂があります。
正確には霊園の区域外になります。階段道は竹や樹木の間伐材でも使ったような、
いかにも昔の雰囲気を残したつくりになっています。


龍泉寺20160219⑤
▲ 先ほどの写真をもう一度見ると・・・
垣根や石垣の向こう側が斜面地になっているのがわかると思います。
これが階段道です。


南ルート②
▲ ガードレールの終わりから階段道を見上げたところ


南ルート③
▲ 階段道の途中で、庄内川方向を振り返り


大泉龍王①
▲ 坂道の途中にある小祠
傍らの石碑には「大泉龍王」と刻まれています。これは私にとって久しぶりの小祠発見と
なりました。石碑と反対側の傍らには泉がありました。


南ルート④
▲ 坂道はさらに続いています
前方に竹林がひろがり、その隙間から車道のガードレールが見えました。
おそらくこれが昔の南ルートなんだろうかと思います。
[ 2016/02/20 22:54 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

今日の歩行ルート~龍泉寺~

20160219歩行ルート
▲ 本日の歩行ルート
本日は午前中に時間が取れたので、龍泉寺さん界隈を軽く散策してきました。
距離3.5kmくらいを、1時間半くらいかけて、どちらかと言えば歩くというよりは
調べるためにうろうろしたという感じです。
上の地図は、スマートフォンiPhone6で Geographica というアプリを使って、歩いたコースを
5秒ごとにGPSで座標を記録して、帰宅後にそのデータをパソコンに転送して、フリーソフト
カシミール3Dで表示させたものです。



トラック
▲ トラックデータ
標高差は55mくらいあったようですが、最近よく歩いているので、あまり苦にもならず
楽々と完歩できました。
本日の目的は、下津尾の渡しから渡し舟で龍泉寺さんの真裏に到着した善男善女が
どのようなルートで登坂したのかの検証です。

前記事
2016年2月15日 休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(3)
2016年2月18日 休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(6)


龍泉寺20160219
▲ 龍泉寺さんの正面まで来ました
本日はここで左に下って霊園へと向かいます。


龍泉寺20160219②
▲ 墓地見取図
いままで何回となく訪れましたが、あらためてじーっと見たのは初めてです。
おやおや、左端のFブロックに「竜神井戸」があるんですね・・・知りませんでした。


龍泉寺20160219③
▲ 竜神井戸の拡大図
ここは前回までの拙ブログで推定したように、「河岸段丘の窪み」の位置です。
もしかしたら、昔からこの場所には泉が湧き出ていて、春日井側からここに到着した参詣客は
ここで清めの水を頂き、その後に登坂ルートを歩んだのかも知れませんね。



[ 2016/02/19 22:47 ] ウォーキング | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(6)

今昔マップ下津尾の渡しマーカー最終
▲ 現在との位置対比

前記事
2016年2月15日 休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(3)

2016年2月15日の拙ブログで、「④ 河岸段丘の窪み」の位置を「龍泉寺霊園の西端」と
比定しました。これをいま少し検討してみましょう。


CA-143龍泉寺側④

CA-143龍泉寺側⑤
▲ 新旧の空中写真の方位、縮尺を調整
2枚の空中写真を重ね合わせると、河岸段丘の窪みは現在の龍泉寺霊園の西の端で、
ほぼ同じように窪みになっていることがわかります。
春日井の下津尾の渡しから舟で、川砂が堆積した洲に渡してもらい、そこから最短距離に
斜めに洲を横切り、現在の霊園の西の角あたりで曲がります。
そのまま現在の霊園の西の端に沿って山に向かい、河岸段丘の窪みに行き着いたら、
そこからいくつかの登坂ルートを選んで登った。そんな情景が目に浮かびます。

下津尾の渡しはこれにてひとまず終わります。
引き続き、「窪み」から龍泉寺さんへのルートを考えてみます。
[ 2016/02/18 22:15 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(5)

CA-143龍泉寺側①
▲ 龍泉寺側の古道を検証
③の「下津尾の渡し」で乗った舟が、どういうルートで庄内川を渡ったかは、その時々の
流路の変遷でいかようにも変わっていただろうことは前回までに考察しました。
また、渡船ルートいかんにかかわらず、龍泉寺さんへの登坂ルートはそうそう変わっては
いないだろうということも書きました。
今回はその考察をしてみたいと思います。
これまでの検討で④の河岸段丘の窪みが、その登坂ルートの始まりなのではと
前回までに書いたことを以下で補強します。


CA-143龍泉寺側②
▲ ③の渡し~④の窪みまでの相対的な位置関係
この段階で、もうすでに④の河岸段丘の窪みに至る道が鮮明に現れています。
その道は上の写真において④の番号を付したすぐ下にあります。
窪みから、もう一段下の段丘へとほぼ直角に通っていることが見られます。
その周囲には田畑が広がっています。
その道が③の方向に向きを大きく変えているのが見えるでしょうか?
その様子を写真を拡大し、色を塗って検討します。


CA-143龍泉寺側③
▲ 前の写真に対して、古道を赤く着色
河岸段丘の窪みに至る古道を赤色で着色しました。
驚くことにその先は真っ直ぐ渡し場あるいは渡し舟に見える方向に向かっています。
写真で矢印を付した渡し舟らしきものと古道を結ぶラインの途中には川砂が堆積しています。
この川砂の堆積地の地形の一部が台形状に不自然に庄内川側に突き出しています。
もしかしたら、これが龍泉寺側(守山側)の船着場なのかも知れません。
[ 2016/02/17 09:34 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(4)

USA-M148-A-7-143(19460528).jpg
▲ 1946年5月28日、米軍による空中写真
国土地理院の地形図(今昔マップ)は、今回のような河川がらみの案件では、現況に対して
地形図が追いつかない、乖離した内容である可能性があります。
そこで戦後間もなくの、米軍による超精密な空中写真を利用して、更に解析を進めてみます。


CA-143堰堤
▲ 八ヶ村用水の取水口と中切の堰堤
昭和21年の米軍写真には中切の堰堤が、庄内川の川幅の半分ほどではありますが、
たしかに写っています。また、八ヶ村用水の取水口も流芯の深そうなところにあります。
ただしこの堰堤は現在の堰堤より下流になります。
ここでは便宜的に①、②と付しておきますが、今昔地図の1959-1960で初めて書かれていた
堰堤と異なることにご注意ください。
この堰堤と取水口の変遷は今回のテーマからは外れますので、またあらためて考察します。


CA-143渡し船
▲ 「下津尾の渡し」春日井側の乗船位置の考察
上の写真のおいて③は前記事から継続して使っている、現在「下津尾の渡し趾」の石碑がある
場所です。ただし説明の関係で、堤防道路の反対側に印しておりますが。
堤防道路から河川敷に降りる道は現在は川下に向かって付けられておりますが、
この昭和21年当時には、川上に向かって降りていたことがわかります。
また降り始めてすぐのところに渡船小屋のような建物が数棟見られます。
そして、赤い矢印を付したところですが、何やら、船と見て見られないこともないような
白いものが写っています。たんなる川砂の堆積かも知れませんが、もしかしたら
渡し舟かも知れません。
[ 2016/02/16 22:33 ] | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(3)

前記事

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(2)

前記事で滝本庄吾氏は、守山郷土史研究会会報「もりやま」第9号(1990年)
東春日井郡川村の郷(上)-大正時代の年中行事・生活点描-の中で
次のように述べておられます。
-----------------------------------------------------------------
中切村との村境近くに渡し場を持ち(堰堤より少し上流)、庄内川を渡ったあと、
川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた
-----------------------------------------------------------------
これをヒントに考察してみましょう。

今昔マップ下津尾の渡しマーカー
▲ 今昔マップで見た2014年の空中写真
最初に今昔マップで現在の状況を上空から確認します。
春日井市中切町の堰堤両端に1および2のマーキングをします。
ついで堤防道路から「下津尾の渡し趾」石碑で河川敷に降りるポイントにも3のマーカーを
落としました。今後今昔マップで時代を遡って堰堤が消えても、代わりに龍泉寺道の古道が
出現しても、このマーカーが変わらぬ位置を教えてくれます。


今昔マップ下津尾の渡し1959-1960
▲ 今昔マップで表示した1959-1960の地形図
この地図が堰堤の描かれている最古の地形図で、マーカーの位置にズレがないことを
念のため確認しています、逆に堤防道路から河川敷への降り口「3」には道路が描かれていません。


今昔マップ下津尾の渡し1888-98
▲ 今昔マップで表示した1888-98年の地形図
堰堤「1」はどうやら河岸段丘の南端に取り付けられたように見えます。
また、龍泉寺さんへのルートが複数描かれてもいます。


明治時代の地形図
▲ 1888-98年の地形図の原図を元に考察
今昔地図では少し見づらかったので、原図(モノクロ)を元に気が付いたことを書きます。

庄内川から龍泉寺さんへの登坂ルート
ここでふたたび冒頭の滝本庄吾氏の言を引用します。
庄内川を渡ったあと、 川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた
上に示した明治時代の地形図に描かれている、庄内川から龍泉寺さんへのルートは
二つあって、ともに「4」とマーキングしたくぼみより出発しています。
北よりのルートは、龍泉寺さんの本堂にほぼ真っ直ぐな、極めて急峻なルートで、
いまひとつ南よりのルートは現在の御嶽さんのあたりに繋がる折れ曲がったものです。
滝本さんの引用文はこの後者、あるいはもう少し南側のルートを指し示している
ような気がします。
現実的に高低差50m以上の急峻な斜面を、ほぼストレートに上り下りしたとは
いくら往時の人々が健脚であっても考えにくく、やはり南側のルートなのかと思います。
いずれにせよ、「4」とマーキングした場所が気になります。
また「5」とマーキングした場所は、当時、河川敷にあった船頭さん(林さん)のお宅かと
思います。


今昔マップ下津尾の渡しマーカー最終
▲ もう一度、現代の写真に戻ると・・・
最初に使った現代の空中写真に「4」登坂口と「5」林さん宅を透過表示させてみました。
「4」登坂口は龍泉寺霊園の西端、「5」林さん宅は河川敷農園の中になっています。
渡船ルートは「3」→「4」の最短コースだったのでしょうか?
庄内川の流路は大規模な増水、氾濫の繰り返しの歴史の中で、幾多も変貌しています。
したがって都度、船頭さんが最適なコースをとっていたと考えられます。

次回の記事に続きます
[ 2016/02/15 15:30 ] | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(2)

20160211下津尾マップ(2)
▲ 私のウォーキングデータ
上の地図において、赤いラインが私の実際に歩いたコースで、スマートフォンiPhoneのアプリ
「Geographica」でデータ記録したものです。堰堤を離れて、しばらく堤防道路を歩いた後、
リュウゼツランの傍らに建つ「下津尾の渡し趾」で河川敷に降りました。


20160211(8).jpg
▲ 堤防道路から河川敷への降り口
河川敷への降り口に立って庄内川を見渡すと、往時はどこに船着場があったのか、そんな
ロマン、探究心が自然と沸き起こります。
ここで下津尾の渡しについて言及した資料より、その情景を転記してみましょう。

郷土誌かすがい 第20号(昭和58年9月15日発行 第20号 ホームページ版)
郷土探訪-春日井をとおる街道7 庄内川の渡し-下津尾の渡し(桜井芳昭氏 春日井郷土史研究会会員)
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下津尾にあり、竜泉寺への近道であった。八田や下原から上条・関田を経て下津尾へ至る道を
竜泉寺街道と呼んでいた。竜泉寺古記録には、「毎年五月十八日に熱田梵天と観音梵天の二本と
神馬二匹を下津村から出して竜泉寺まで引き上げる。また、正月七日には観音堂前で下津尾村の
社人が神楽祝詞をあげ五穀祭りを行う。」とある。このことから下津尾と竜泉寺は古くから関係が
深かったことがわかる。
ここの渡しの川舟は舟腹の横板の枚数で二枚腹とか三腹と呼ばれ、ここは木曽川から払い下げられた
二枚腹が多かったという。昭和13年頃までは竜泉寺の節分や初観音の時は特別利用客が多いので、
前日に部落総出で仮橋を架け、当日は橋の通行料として片道2銭(往復3銭)を取って渡した。
ここの渡しは市内で最も最近(昭和40年)まで続き、渡舟場跡には当時をしのぶ「下津尾渡し跡」の
標柱が建てられている。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第2号(昭和58年)
庄内川の「渡し」をたずねて 久野冴子さん
下津尾の渡し
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庄内川の右岸、ちょうど龍泉寺の対岸の堤防のきわに水神塔と並んで「下津尾の渡し跡」と刻まれた碑がある。
二年程前、自転車でこの付近を通ったとき、偶然この碑が目にとまり、ああここに渡し場があ
ったのかとなぜかとっくに忘れたものを呼び覚まされた思いがしたものだ。
今度再び当地を訪れ、堤防下に旧家があったので「渡し」について何かわかるかも知れないと思い、
訪問したところ、ご老人が応対に出てこられた。何と幸運なことにこの方が下津尾で最後の渡し守をして
いらっしゃった林泰一さんであった。以下林泰一さんの談話である。「下津尾の渡し船は笹舟と云う川舟で、
木曽川から払い下げてもらったものである。舟腹の板の数で二枚腹とか三枚腹とか云われたが、
大体二枚腹の舟が多かった。対岸の龍泉寺への往来に利用された。畠仕事をしているとき(乗る時は)
お願いしますと声をかけられ、龍泉寺の方からは大声でオーイと呼ばれると舟を出しに渡し場にかけつけ
たものである。
渡しは古くからあったが、大正の初めから昭和の5年頃まで父(寓三郎)が渡し守をつとめ、
舟賃は片道二銭、往復三銭であった。父の死後自分が引き継いだ。
平常乗客は一日4,5人ぐらいであったが、龍泉寺の節分会、初観音(旧1月18日)、毎月7日の七福神、
21日の弘法さんの日は大そうにぎわった。節分には夜半からお詣りする人が多いため、前日に
部落総出で仮橋をかけ、当日は部落の当番が、橋の通行料(舟賃と同じ)をとって渡した。
あくる日また部落総出で橋をこわしてしまう。
昭和13年頃松川橋ができてから、仮橋を渡る人も少なくなり、また勤め人も多くなったので
架橋は行われなくなった。それ以後は節分と初観音の時に吉根から船を二艘借りてきて渡しを行った。
その時、渡し守はくじ引できめたものである。
戦後、龍泉寺へお詣りする人が減るとともに、舟を利用する人も少なくなったが、
それでも昭和40年頃までつづけていた。このころの舟賃は片道20円往復30円であったと思う。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第9号(1990年)
東春日井郡川村の郷(上)-大正時代の年中行事・生活点描- 滝本庄吾氏
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龍泉寺の真裏には、もう一つ渡舟場があった。
これを「下津尾の渡し」という。これは江戸時代に下津尾村(現在春日井市下津町)と称して
いた村の渡しであった。この村は龍泉寺の真裏にあって庄内川を挟んだ対岸に位置し、
下流の隣村、中切村との村境近くに渡し場を持ち(堰堤より少し上流)、庄内川を渡ったあと、
川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた
。江戸時代の『尾張年中行
事絵抄』にも、正月六日夜「龍泉寺、福拾祭。これは吉根村と下津尾村の人々、本堂に集会。
下津尾の社人来りて、宝前に於て祝調、祭文。」とみえる。
このように昔から下津尾の人々は、龍泉寺との深い関わりを持ち、龍泉寺で行なわれた
各種行事のたびに、自分村の舟を利用していたのである。そのずっと後の昭和三十年代となっても、
暖かい時期には八ケ村用水の堰堤の上を水につかって歩いて渡り、節分の日などの水が
冷たい時期には、舟を出して渡っていた。昭和四十年代になると、自家用自動車が普及し、
下津尾の渡しは姿を消していた。こうしたことから、守山区との関わりを持った庄内川の舟渡しの、
最後となったのは下津尾の渡しであったといえよう。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第12号(1993年)
吉根ムラ散歩の記(11)-川向うの村々-、徳田百合子さん
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下津にも渡しがあった。野田や桜佐の場合とちがって、わりに最近まで竜泉寺への参詣人に利用された。
祭日には板橋も架けられたが、昭和13年頃松川橋ができてからは中止となり、節分と初観音の日に
吉根から船を借りてきて渡しを行うていどであった。しかし昭和40年頃にはそれも絶えたという。
堤防道路すぐ横に「下津尾の渡し跡」と刻まれた石碑がたっているが、そこから下りてゆくと広い河川敷一
面に野菜や花瓶として耕作されていて、川の流れている所までは大分距離がある。
この河川敷の中にもかっては家があったという話を竜泉寺の林一政氏からきいた。
林氏の五代前迄はその中州に住んでみえたのだが、明治の初め頃本家は下津の方へ移転し、
分家が竜泉寺の門前へ引越してきたとのこと。今では交際が絶えたが、その本家の林さんの家は、
現在では伊藤という方が後を継いでみえるそうで、詳しいことは泰岳寺できいた方がよくわかるのでは
ないかとおっしゃった。
明治の地図をよく見ると中州に二戸の家があって、そこから下津への道が点線で示されている。
更にもう一つ古い文化10年の川絵図のことを思い出す。そこにも川縁に二戸の農家が描かれていた。
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続く
[ 2016/02/14 23:00 ] | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(1)

一宮友歩会45回マップ
▲ 一宮友歩会のウォーキングマップ
私は守山区に住んでいながら、お隣の春日井市側の見どころはあまり知りません。
そこで事前に上図のマップを用意しました。
このマップには私の進行方向の近い順に「下津尾の渡し跡」が書かれています。
これは守山の郷土史にもよく出てくる、龍泉寺さんと春日井を結ぶ渡し場です。


20160211下津尾マップ
▲ 上図で矢印のあたりになりますか?
詳しくはこのブログの続編で考察しますが、龍泉寺さんにもっとも接近するのは、
龍泉寺霊園の東の端あたりかと思います。そして渡し舟が庄内川を最短距離で、
しかも河川に対して直角で横切るとすれば、このあたりかと思います。


20160211(5).jpg
▲ 河口から「26K8」の表示ポストのあたり
河川敷にゴルフの練習場のような芝生広場が見られます。
この日はラジコン飛行機の愛好家たちが集まっていました。


20160211(6).jpg
▲ やがて芝生広場に降りる道が現れます
降り口の目印は路肩に生えているリュウゼツランです。 


20160211(7).jpg
▲ リュウゼツランに隠れるように石碑が建っています
碑文には「庄内川 下津尾の渡し趾 安藤直太朗書」とあります。
安藤直太朗氏は「郷土史かすがい」などに椙山女学園大学名誉教授と見えます。

翌日のブログに続きます
[ 2016/02/13 23:11 ] | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 中切町の堰堤

20160211堰堤マップ
▲ 最初のポイントは「矢印」の堰堤です

前記事は、
2012年8月27日の、庄内川の川遊び
2012年8月26日の、八ヶ村用水

今回歩いた庄内川対岸の堤防道路は、いつも車で走るだけであらためて散策したことがありません。
そこで最初の立ち寄りポイントは、八ヶ村用水の取水口探索で出会った堰堤にしてみました。



20160211(4).jpg
▲ 陽光に輝く堰堤

正面の山は龍泉寺、山すそに龍泉寺霊園も見えています。
今は水量が少ないので、うまくすれば向こう岸まで渡れそうです。
前記事で、春日井側の子供たちが守山側のほんの手前まで来ていましたが、
なるほどなとあらためて思いました。
[ 2016/02/12 22:13 ] ウォーキング | TB(0) | コメント(0)

本日の休日日課ウォーキング

20160211ウォーキング
▲ 本日のウォーキングの足どり
本日は大変な冬晴れに恵まれて、少し遠方まで足を延ばしてみました。
平日の夜に暗い中黙々と10km歩くよりも、写真を撮りつつ、季節感を確かめつつ、
14.5kmを歩くことがなんと爽快か、あらためて知るところとなりました。
ルートは守山区側から国道302号線で春日井市側に渡り、そのまま庄内川を北上。
そして一つ上流の吉根橋で再び守山区に戻るコースをとりました。


20160211(1).jpg
▲ 遠くに白く雪化粧の伊吹山、手前に名二環
そして、まこと穏やかな庄内川の流れ。
こんな風景を見下ろして「よしっ!」と確認するように気合が入りました。


20160211(3).jpg
▲ 橋の中ほどで上流側を見れば御嶽山も見えました
本日のウォーキングではいくつかの課題、確認事項を用意してのぞみました。
これから何回かに分けてここで書くことができたらと思います。
[ 2016/02/11 22:00 ] ウォーキング | TB(0) | コメント(1)
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加藤

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