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外濠稲荷(4)

娯楽園があった場所は、瀬戸線本町駅から大津町駅にかけての、線路と(お城側の)
石垣との間の狭く長細い区間でした。前出の回想録にも書かれていましたが、
娯楽園に行くには、瀬戸線の駅から外堀通り側に出るのではなくて、反対側の
出口に向かう必要があったわけです。ほとんどの乗客は市電に乗り換えるにしても、
今で言うオフィス街へ行くにしても、階段を上って外堀通りの車道を目指したかと思います。
それとは反対側の出口に娯楽園の入口があったわけです。




名鉄瀬戸線いまむかし20171030 瀬戸線の90年(1)20171030
その頃の娯楽園の写真はほとんど見られませんが、2枚の写真を掲示します。
左側:「名鉄瀬戸線いまむかし」、右側:「瀬戸線の90年」
どちらの写真もまったく同じものです。書籍2冊から私が画像をそれぞれ取り込んで、
それをコンピューターで画像処理する段階で、意図的に濃淡を変えてみました。
2枚の写真は確かにまったく同じものなのですが、2冊の書籍に使われる段階で
右側カットのものと左側カットのものに分かれてしまったのは興味深いです。
つまり、片方の書籍しか見られていない方にとっては、未知なる右側あるいは
左側を初めて知ることができるからです!




072_073.jpg
それでは2枚の写真を同じ濃度にして合成してみましょう。
いかがでしょうか、少しだけ左右が拡がったのがおわかりいただけますか?



瀬戸線の90年着色
さらにこの写真に、現代の最新技術で色をつけてみましょう。
元になる白黒写真から、コンピューターがさまざまな解析を行って、自分で色を
つけてくれます。もちろん白黒写真には色情報は含まれていませんから、
コンピューターが解析、判断しているだけなのですが。
ほんのりとセピア調に色がのりましたね。

つづく
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[ 2017/11/02 20:37 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

外壕稲荷(3)

娯楽園を含めた瀬戸線の研究者的な視点からの記述を転載させていただきます。
守山郷土史研究会会報第28号
「瀬戸線あれこれ」 伊東重光さん
***
 本町と久屋の問に「娯楽園」(遊園地)があり、大正期に作られたが、開園の時期は特定できてない。
大正13年の沿線案内(注3・2頁)に「娯楽園停留所」の記載があり、「本町駅と久屋駅の中間で
娯楽園の中央」で、「瀬戸電鉄の経営にして電車の乗客慰安のため設備を為したもので、
運動器具から動物等まで飼育し(中略)休憩所もあり、それに観桜会、観藤会、納涼会、観菊会や
虫の声などと臨時余興を開催し、なお時々夜間開園をなす。市内北部第一の遊園地なり」
と自画自賛している。この区間の複線化に伴って休止されたが、正式廃止は外堀線の廃止時であった
(注11・31頁)とある。

 年表(注2・230頁)には、大正2年8月に土居下~堀川問の複線運転が
認可された(大曽根~土居下は8月14日)とあるが、実際は土居下・東大手・大津町・本町の
橋梁部分の拡張は軍の許可が得られなかったため、実質的に単線であるガントレット
(一見単線に見える部分的に重なり合う形の複線・狭窄線)が残っていた。
本町付近を除いて完全な複線とされたのは昭和18年12月(註10・968頁) なので、
複線化は娯楽園休止と時期的に整合しない。昭和4年に休止し、オーナーが
新舞子の開発に着手したことと関係あるかもしれないとする資料がある(注1・49頁)。

注1 「せとでん」やきものの街瀬戸と瀬戸電の歩み(瀬戸電開通90周年記念
   特別企画展図録)」瀬戸市歴史民俗資料館、1995年。
注2 伊藤正ほか「瀬戸線の90年」郷土出版社、1997年。
注3 「瀬戸電鉄沿線案内」瀬戸電気鉄道株式会社、大正13年。
注10 名古屋鉄道広報宣伝部「名古屋鉄道百年史」名古屋鉄道株式会社、平成6年。
注11 前島一慶「せとでんの歴史(名鉄瀬戸線史)」雑論グループ知神HERMES、1990年。

更に伊東先生による続稿によれば、
守山郷土史研究会会報第29号
「瀬戸線あれこれ(二)」 伊東重光さん
***
 現在の各駅の公式の開業日の資料によると「娯楽園」と「大津橋」は明治44年(1911年)
10月1日とあるので、共に開業日から存在していて「娯楽園」が途中から「大津橋」とな
ったらしいとのことであるが、大正10年11月2日から10日間、娯楽園で行われた外濠線
一周年記念の新聞記事(注16・大正元年10月30日)に、「築営中の本町娯楽園もこのほど
竣工せしかば、この落成を兼ね」とあるので娯楽園の開園は開通日までさかのぼれない
ように思われる(遊園地に先立って駅は開業していたか)。

 そして一周年の祝で瀬戸からの往復乗車券および市内回数券購入者に「豪華な賞品
(債券・箪笥・戸棚・長持・掛置時計・帯・雨傘等) の当たる福引券を贈呈」するとの記事があるが、
娯楽園は電車の利用者に限るとある。この取扱がこの行事の期間だけなのかは確認できていない。
この記事中に「堀川~大曽根聞の外濠線」とあるので、当時の御園橋東の終点を「堀川」と
呼んだ可能性が大きいと思われる。

注16  新愛知新聞社「新愛知」

つづく
[ 2017/10/31 20:52 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

外壕稲荷(2)

外壕稲荷の話の前に、触れなければならない瀬戸電の歴史の一こまがあります。
それは名古屋城の外堀にあった瀬戸電経営による遊園地「娯楽園」です。
娯楽園についてはインターネット上の情報がほとんど無いため
守山郷土史研究会会報からご紹介します。

守山郷土史研究会会報第9号
「東春日井郡川村の郷(上)」 -大正時代の年中行事・生活点描- 滝本庄吾さん
***
久屋の公園とは現在の久屋公園ではなく、大正当時、名鉄瀬戸線が瀬戸電と呼ばれ、
名古屋城の外堀内を走っていて、まだ名鉄に吸収されていない時代、
瀬戸電が乗客の客寄せに作った公園であった。これを「娯楽園」という。
外堀内を走る電車道に沿った北側、久屋駅と本町駅間の細長い公園であった。
お堀の内であるため北側は石垣となっており、その上は「借行社」があって北に上ることは出来なかった。
(中略)
この娯楽園では夏になると盆踊り大会が聞かれ、各地から多くの組の参加申し込みがあった。
申込者は日程が割り当てられ、同じ日に何組かが一緒となるが順に踊って行く。
そこに川村からも毎年出場していた。先の谷口松三郎らに連れられた女の子達十五、六人は、
各自盆踊りの小道具(ザィ、花笠、扇子、手拭い等)を持ち、水道みちを通って廿軒家に出て、
連隊前駅で瀬戸電に乗った。
久屋駅で公園側(通常客は南側に下車)に下車し、降りた目の前が盆踊り会場であったという。
昭和初期、この娯楽園辺りも、完全複線化となったが、公園側に新しい線路を拡幅したため、
この公園は廃止された。


続けて娯楽園界隈を描写した手記を転載させていただきます。
守山郷土史研究会会報11号
「雀のささやき(二)」 田辺 爵さん
***
堀川のセト電終点は、大正時代には殆ど乗ったことがない。名古屋駅へ行くのも大ていは、
大津町で下車、市電に乗りかえた。広小路へ出るにも森下で乗りかえず、本町まで行き、
そこから歩いた。万葉辞典を求めたのもそのついでだった。
大正末期には、四年ほどいなかったので、殆ど利用したのは、大正12年以前のことである。
本町は、娯楽園の入口で、堀中の細長い沿線の空地を利用して、桜を植え、小動物をおいて、
桜のころには、夜も開園し、ニワカ万歳があり、川村の少女のさいはらいをもったおどりがあったりした。
桜のころは、夜桜がてりはえ、ぼんぼりに灯がつき、堀上の老松が星のまたたきをかくし、
往復の電車がいそがしげにチンチンとベルを鳴らしながら走った。いちど田楽をたべたかと思うが、
本町で下車、入場料をはらって(五銭?)大津町の東、久屋から電車でかえった。

以上は当時見聞きされた方々の手記でした。
娯楽園についてなんとなくイメージをつかまれたでしょうか?

つづく
[ 2017/10/30 20:45 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

外壕稲荷(1)

外壕稲荷(そとぼりいなり)・・・、そんな稲荷さんが守山区にあったっけ?
と、ブログタイトルが「わが町守山区」なので、稲荷様のキツネにつままれたような
怪訝な顔つきで首をかしげられるかもしれませんが。
今回はそんなお話でございます。

関連記事
・ 名鉄資料館(可児) [2013/06/24]
・ 天王社(喜多山) [2012/11/14]

守山区内の名鉄瀬戸線の駅で、最近大きく様変わりしたのは喜多山ではないでしょうか。
喜多山駅の特に北側は瀬戸線の部分高架の工事着工もあって、駅前に桜の名所のような
小高い土盛りの森がありましたが、これを地ならしして新しい仮駅舎、駐輪場、名鉄の仮設
事務所になっています。

その桜がきれいだった森の中にお社がありました。
お社の名前は正一位喜多山稲荷。
元々は瀬戸電・大津町駅近くにあって円頓寺の芸妓衆の信仰を集めていました。

喜多山駅前にあった瀬戸電創始者・加藤杢左衛門の銅像が戦時供出で台座だけに
なっていたところに、稲荷さんに大津町駅からお移りいただいたのがはじまりと言われています。
こんなところが関連した前記事の要約です。

つづく
[ 2017/10/29 11:45 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(大牧町) (2)

前記事  2016/10/15  天王社(大牧町)
      前記事では、 天王社(大牧町)を事例にGoogle map の使い方を書いてみました。
      今記事ではほんの通りがかりではありますが、現地探訪の写真を掲載します。


天王社(大牧町)20170102(1)
【天王社(大牧町) 2017/1/2 撮影】
普段はひっそりとしている天王社ですが、お正月や天王まつりの頃はきれいに
整えられて、すがすがしいです。



天王社(大牧町)20170102(2)
【建立は平成20年12月】
前記事にも書きましたが、この天王社がこの場所に建てられたのは比較的近年でしたが、
今回あらためてそれが「平成20年12月」であることが判明しました。
[ 2017/01/02 23:53 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(大牧町)

天王社(大牧町)
もう何年も前ですが、守山郷土史研究会の先輩にして、ええとこ守山案内人の会長を
されていた故 森友さんより、守山自衛隊の北側にできたキレイな道沿いで天王社を
見つけたよと声をかけていただきました。
私が車で往復した限りでは見つけられず、森友さんに案内を乞う前にお亡くなりに
なってしまわれました。ずっと気になってはおりましたが、なかなか歩いて散策も
できないままでした。このたびGoogle mapの使い方を郷土史仲間からお尋ね
いただいたのを機会に、この天王社をモデル例として記しておきます。


天王社(大牧町)位置
天王社(大牧町)の位置
ゆとりーとらいん・金屋の交差点から郵便局の方向へ、東を向いて坂道を上ります。
200メートルほどでファミリーマートにでます。さらに100メートルほどで市バス
大牧町のバス停がありますので、その真ん前にありました。

まずインターネットで検索サイトのGoogleを開きます。
画面右上のほうに縦三つ、横三つの四角の点が方形に並んでいるところをクリックします。
表示されたサブメニュー「Google アプリ」から「マップ」をクリックします。
自動的に守山区が表示されればOKで、他の地区が表示されていたら画面左上の
「Google mapを検索する」と書かれた文字の先頭あたりをクリックすると文字入力
できるようになりますので「名古屋市守山区」とでも入れてEnterキーを押します。
すると上のような地図が表示されますので、見たい地域を探して、そこを
ダブルクリックすればどんどん拡大表示されてゆきます。

ある程度拡大表示できて「金屋」の交差点付近が画面いっぱいになったら、画面右下の
黄色いひと形のシンボルをクリックします。すると画面の道路の上に青い線が描かれます。
この状態をストリートビューといいます。Googleの撮影車が通って画像記録のある
道路が青い線で描かれているわけです。
その状態で「金屋」の交差点をクリックすると、画面は地図から画像へと変わります。



天王社(大牧町)1
Google mapの使い方
金屋の交差点の画像で、右下に方位磁針と、それをとりまく円弧状の矢印があります。
その矢印を一回押すたびに画像の方角が90度変わります。
(何回か押しているとまた元の方角に戻ります。)
東向きの画像を表示させて、上り坂の途中にマウスを持ってゆきクリックすると、
画像はその位置の画像に変わります。
そんなことを繰り返しているうちにファミマが見えてくると思います。
さらにそこから100メートルくらいで、この写真の大牧町バス停まで到着します。




天王社(大牧町)2
画像を北向きに変更します
民家の片隅に区画が設けてあり、そこに天王社のお社が見えますか?



天王社(大牧町)3
大牧町バス停の真ん前です


いかがでしたでしょうか?
郷土史はフィールド調査がキホンですが、事前の調査としてこれだけでもわかっていると
現地へもスムーズに到着でき、あらかじめ用意した調査内容に時間を十分振り向けられると
思います。ぜひともご活用されますようお進めいたします。
説明不足のところは何なりとお申し付けください。
[ 2016/10/15 11:51 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

瀬古新田の天王社

未新田20130715-1
瀬古 新田の天王社
善光寺街道の守山区内北端近くに、旧の大字瀬古字未新田の天王社さんがあります。
旧道角地にお社とお堂が並ぶ、いかにも農村の典型的なスタイルです。


未新田20121008-1
小祠の中には三社が祀られています
一段高い中央のお社が尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)です。
天王社も一緒に合祀されているかと思われます。
下段の二社は社殿に扉がなく、神札もありません。
新田の世話役は、毎年輪番で津島神社と国府宮に神札をもらいに行かれます。


未新田20121008-2
地蔵堂
地元のお世話役が御花をお供えし、お守りされていらっしゃいます。


未新田20121008-3
お堂の中には
大小2体のお地蔵さまが鎮座されていらっしゃいます。


未新田20121008-5
道標仏
実はこの大きいお地蔵さまは「道しるべ」の道標仏です。
お堂の中ということもありますが、風化が激しく、文字が刻まれているようだくらいにしか
わかりませんが、この資料(「もりやま」守山郷土史研究会、1986)によれば、
左 ぜんこうじ(善光寺)道、右 里うせんじ道(龍泉寺)と書かれているそうです。
従いまして、もともとお立ちになっていた場所は、現在の対面(とい面)だったと思われます。
[ 2013/07/17 22:30 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(大字幸心字高田)

幸心20121223-1
守山区幸心3丁目にある天王社さん
後述するが、ここは私のとりこぼしエリアだった。
三階橋近くの守西ポンプ所方面への走行中に、
偶然県道から見えたのがきっかけだった。




幸心20121223-2
三差路交差点の角に鎮座
県道から北に入るとすぐに道は三差路になる。
その鋭角の頂点に朱塗りの天王社さんがあった。
よそで多く見られる覆い屋根はここにはない。
おそらく背後の記念碑への配慮なのかも知れない。
手前に見える郵便受けみたいな金属箱はお賽銭入れだ。



幸心20121223-3
竣工記念の石碑
幸心土地改良区の記念碑
竣工記念の題目の下に「衆議院議員 丹羽兵助」と見える。




幸心20121223-4
間黒神社元旦祭のおしらせ
この一角に町内の掲示板があって、そこに間黒神社の
お知らせが掲示されていた。
この場合、間黒神社は大字幸心の村社で、
天王社さんは集落のお社と言う関係が
両社の間に成り立っている。




幸心20121223-5
2005年版の住宅地図
私が普段使っている2005年版の住宅地図
これには天王社さんを示す鳥居のマークが入っていない。
取りこぼしの半分はこうした理由だ。
水路を挟んで反対側は幸心4丁目となる。
なぜ3丁目の真ん中に天王社を建てなかったのか、
それは現在の行政区画では説明できない。




幸心20121223-6
1992年版の住宅地図
これを見れば、鎮座している場所は大字幸心字高田と
なっているのがよくわかる。
さらに当時の字高田は現在の幸心4丁目に
随分入っている。すると天王社さんは集落の境界
ではなくて、真ん中にあったことがわかってくる。

これが、天王社さんを調べる時に、
現在の行政区画で考えないで、
旧の大字小字で考えるゆえんである。
[ 2012/12/29 17:57 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(大森西向:大森字原境)

向台20121216-1
現在の向台一丁目、旧の大字大森字原境に
天王社と思しき小祠があると、12月の守山郷土史研究会で森友先生から伺った。
例によって天王社カラーとでも言うのか、赤く塗られていないし、しかも民家の
敷地内にある変わった祠だ、これを調べてくれとのお話だった。
森友先生から住所を聞き、住宅地図を小脇に抱え、その区画を一回りしてやっと見つけた!


向台20121216-2
たしかに民家の中だ!
いちおう門扉があるが施錠はされていない。物干し用の竿かけスタンドは庭のすみで
錆び錆びの状態だ。つまり生活感が無い。しかし荒れてはいない。
これをどう判断したらよいというのか。


向台20121216-3
お社をズームアップしてみた
近在の天王社には見られないような、立派な石組の上にお社が鎮座されている。
しかもお堂や倉のように囲みになっていて、その中はうかがい知れない。


向台20121216-4
お隣の駐車場から、お社の正面を拝見すると
開き戸は閉ざされ、カンヌキが掛かっていてる。
かたわらに石像が一体と供花がある。
石像のある場所だけ石組が一段低くなっており、フェンスも石像を迂回している。
まるで神仏をギリギリ分離させたかのような造りだ。



向台20121216-6
この石像はなんだろうか?
守山郷土史研究会の会誌「もりやま」第7号(1988)では「守山の石造物(その3)」と題して
石仏を特集しているが、その中には入っていない。
いかめしいお顔、逆立った頭髪、上2本の手の持ち物を特徴として「青面金剛像」で
あろうかと思われる。青面金剛像は庚申信仰の主尊だ。


向台20121216-5
掲示板があった
そこには2枚の貼り紙が掲示されていた。
1枚は八剣神社の初詣のお知らせ。もう1枚も八剣神社の左義長のお知らせ。
大森地区を歩くとよく目にするが、こうした八剣神社の祭礼や行事のお知らせが
町内会の掲示板によく貼られている。
しかしここの掲示板は逆に町内や行政の貼り紙がない!

わが中学校の恩師にして、「矢田川物語」等の著者である小林先生は、その矢田川物語の中で、
次のように書かれている。
・川(矢田川)南の大森はまとめて「大森向(むかい)」と呼ばれ、・・・以下省略
・現在大森では(天王社は)新田と西向にしかなく、あとはすべて区画整理の時に八剣神社の
 境内に移されてしまいました。


旧の大字大森には「西向」という小字はなかったことから、西向とは矢田川の南側を
まとめて向と言ったその西の嶋(集落)、すなわち今回の(旧)字原境も西向であろうと考える。

大森天王祭を愛する大森梶方會のブログによれば、「西向島元天王社の様子」と説明された
写真が掲載されている。「西向」とは「西向嶋」のことだったのだ。

帰り際にちょうどお隣さんがいらっしゃったのでお話を伺った。
30年前にこの地に転居されてきた時には、すでにこのように空き家と庭にお社があったそうだ。
町内の子供神輿の時にはここを宿としたことを覚えていらっしゃった。
お年寄りの集まりもここであるそうだ。
八剣さんから神職がいらっしゃって、ここで祭礼もあるらしい。
ということで、現段階では、拙論ではあるがこのお社は大字大森の西向島の天王社さんであると
して筆を置く。
[ 2012/12/23 06:01 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(瀬古字神守)

神守20121216-1
現在の町名では瀬古1丁目、旧の表示では大字瀬古字神守(かもり)となる。
矢田川北岸の堤防道路を走っていて、三階橋交差点の直前(東)という表現になるか。


神守20121216-2
お社の背後に見える建物は、名古屋市の守西ポンプ所だ。
建物の右上にはマンホールの蓋のキャラでおなじみの、アメンボウのイラストがある。


神守20121216-3
いやに頑丈そうなコンクリートの床だと思ったら、ポンプ所から矢田川に排水する
排水路の天井だった。お社の背後のメッシュをのぞくと排水路の暗渠が見える。
それにしてもお社の横にある弧形のコンクリートと枡形の基礎跡は何なのだろうか。
かっては何かあったのか。


神守20121216-4
お社の前は矢田川の堤防道路だ。
普通ならこんなところに鎮座することは許可されまい。
おそらく守西ポンプ所開設とのかかわりがあるのだろう。
あるいは堤防道路拡幅との関係か。
いずれにしても、それなりの歴史があることには違いないだろう。


追記
この写真は次のサイトで発見し引用させていただいた。
矢田川伏越 (やだがわふせごし) : 名古屋 堀川の旅

神守20121216-5



追記2
次の写真も同じころのものだろうか。
愛知限定 歴史レポ 庄内用水元樋」地レポNo2、大井戸と矢田川堤防の祠

神守20121216-6

かっては右の傍らに、もう一つのお社があったのがわかった。
[ 2012/12/21 06:06 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

お社(瀬古字高見)

高見20121216-1
現在の地名では瀬古東一丁目だが、お社の成立を考えると、新しくても大字小字くらいで
考えないと、どちらの島のお社なのか見当ちがいをしてしまう。
そういう意味では、この場所は大字瀬古字高見の東のはずれになる。
少し下流に行けば、高牟神社、石山寺がある。


高見20121216-2
矢田川の堤防道路の外側の「ノリ面」に鎮座している。
すぐ近くを生活道路のように階段が設けられている。今は葉が落ちてどの方向からも見えるが、
夏にはお社が木陰に入り、うっかりすると通り過ごしてしまうかもしれない場所だ。



高見20121216-3
このお社には覆い屋根が無い。丸石などをコンクリートで固めただけの台座に鎮座されている。
しめ縄は新しいし、榊もしおれていなかったので、きっと近くの信心深い住民に
お世話をされていることだろう。お社の右に立つ木柱に何やら書かれているが
風化が激しく、読み取りは厳しい。


高見20121216-4
お社の左後方にある立て札。
よく見ると、二重書きのように下の文字が見える。文字が風化してかすれてくると、
またペンキを塗っては書きなおして使っているようだ。
文末にやはり何やら書いてあるが、これまた判読は厳しい。


高見20121216-5
堤防下から見上げるとこんなかんじ。

社殿はいわゆる「板宮造り」という様式で、昭和以降に簡略式に建てられたお社に多いらしい。
お社の特定は残念ながらできなかった。
また近くに行った時に、近くの住民に聞いてみようと思う。
[ 2012/12/20 06:09 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(守山字馬場)

馬場20121216-1
12月の守山郷土史研究会で先輩会員の森友さんが、旧馬場に天王社のような社を見つけたけど、
朱色に塗られていない天王社もあるのだろうかと仰ってみえた。
旧地名大字守山字馬場は私は取りこぼしエリアだったので、地図を書いてもらい、12/16(日)に
訪ねてみた。ここは住宅地図にお社の地図記号のないところだったので、
見落とさないように慎重に車を運転した。


馬場20121216-2
そのお社は金属加工の神谷工業所さんの敷地内にあった。
ちょうど先代の奥さんがいらっしゃったのでお話を伺った。こちらはお天王さんに間違いなく、
いまでも町内で御まつりされているとのことだった。


馬場20121216-3
左側に立てかけてある木枠は、お祭りの時に提灯を掛けるためのもの。
神谷家が昭和30年頃にこの地に来た時には、この場所に古屋があり、社が屋根の上にあった。
古屋を取り壊すときに、神様にも下に降りていただいたそうだ。
提灯掛けはまさに西区の屋根神さまそのものだ、これは驚いた!


馬場20121216-4
特別に中を拝見した。お札は熱田さんを中央に、左に秋葉さん、右に津島さんと、これまた
西区の屋根神さまによくある組合せであった。毎月1日と15日にお供えをしている。



馬場20121216-5
天王社が鎮座しているコンクリートの台座と覆い屋根は、神様が屋根から降りられた
昭和30年頃に作られたものだ。覆い屋根は朱色に塗られているが、お社そのものは塗装されていない。
これには特別な意味は無いと思うとのことだった。
今でも子供会のお神輿のときにはここに集まる町内の守り神だ。
[ 2012/12/19 06:01 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(守山下町) その2

元屋根神20120817-7
下町の天王社さんって・・・
天王社(守山下町)で献灯に「下町一同」と刻まれていることをご紹介しました。
じゃあ「下町」ってどこなの?という疑問は当然のこととして湧いてきます。
現在も、守山市、守山町の時ですら下町という字名はありませんでした。



下町20121124-3
矢田川物語を見ていたら・・・
こんな村絵図が掲載されていました。
図中の赤丸囲みのところが、おそらく下町の天王社さんだと思います。
赤丸の瀬戸街道を挟んで西側に「下町(しもまち)嶋」と書いてあるのがわかります。
「下町」を見つけた思いです。



守山商店街拡大2
明治末年 守山商店街推定図
名古屋区市シリーズ「守山区の歴史」に、田辺爵氏の書かれた地図が掲載されています。
同書によれば「今も残る守山の鍛冶屋は畑中氏である。鍛冶屋の南の天王社は屋根神となり、
今は瀬戸街道と旧道の角に移っている。」この文章がこの地図に見事書きこまれているのに
気が付きました。
地図の中の赤囲みの箇所が、鍛冶屋の畑中さん宅、その南に神社の鳥居マークがあります。



下町20121124-1
現在地はこのあたりでしょうか
畑中さん宅をお伺いしました。現在のご当主は昭和初年のお生まれで、この経緯をよく覚えて
おいででした。ご当主の代までは鍛冶屋さんを営んでいらしたそうです。区画整理までは
畑中さん宅は瀬戸街道に面していて屋根神さまがいらしたそうですが、整理を機会に少し
引っ込んだ場所に移動されたとか。
畑中家はもともと鍛冶屋集団の町、知多大野にあって尾張藩の仕事を多くしていたのが、
維新になって藩の仕事が無くなり、ここ守山に移転してきたのが嚆矢だとか。
ご幼少のころ、梯子を掛けて屋根上にある神様のお世話をされたご記憶もおありです。
そのころの瀬戸街道の両側は畑や田んぼばかりだったそうです。
この近在の畑中姓は同時に大野から出てきた親戚や、こちらに来てからの従兄弟で
やはり鍛冶屋を営み、屋根神様は守山区でもあちらこちらで見られたそうです。




下町20121124-2
1970年代の下町の天王社さん
どんどん庵の向かい側の天王社の写真が矢田川物語にありました。
左側の歴史的な町並みは姿を消し、駐車場になっていたと思います。

下町(しもまち)の天王社さんの調査はこの程度にしておきます。
貴重なお話をしてくださいました最後の鍛冶屋さんには、まだまだお元気にくらして
頂きたいと思います。
[ 2012/11/25 06:42 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

八剱神社(森孝新田)その4

八剱神社(森孝新田)の由緒
村社の境内によくある由緒書きは、残念ながら、こちらの八剱神社(森孝新田)様には
ございません。町内会長さんに案内していただいて氏子総代さんをお訪ねしましたが、
やはり由緒書きは伝わっていないとのことでした。

一般に村社を含めて神社は、明治4年5月14日(1871年7月1日)に太政官布告
「官社以下定額・神官職制等規則」により社格が制定されました。近代社格制度 - Wikipediaより

この前後に各神社が役場に提出した「明細」の中に、若干の由緒書きがありますので
ご紹介します。
守山郷土史研究会会報「もりやま」第5号より「守山町神社明細帳」より
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愛知県管下尾張国春日井郡森孝新田字乙百番
村社
八剱神社
祭神 倭建命、須佐之男命
由緒 文政9年丙戌5月26日勧請と申伝う
社殿 竪2尺7寸、横2尺1寸
拝殿 竪1間4尺5寸、横1間1尺7寸
境内坪数 303坪、民有地第2種
境内神社 1社
     御嶽社 祭神 大名持命、少彦名命
     由緒 天保4年癸巳の頃創立と申伝う
     建物 竪1尺2寸、横1尺
氏子戸数 55戸
管轄庁迄距離 3里8丁
右之通相違無御座候也
明治12年10月
右祠官 安藤正義
同祠掌 高松信彦
同氏子惣代 肥後平蔵
      梅村金蔵

春日井郡長 吉田禄在殿
前書通相違無御座候也
右村戸長 酒井慶蔵
=======================================================

他の文献にも掲載はありますが、おおむねこのとおりです。
例えば・・・・・
東春日井郡誌:祭日10月17日とある他は、上記からの抜粋引用です。
守山市史もまた東春日井郡誌と同文(丸写し)のようです。

他方、これとは違う記載もあります。矢田川物語、小林元著、昭和55年
「森孝新田の八剱神社の創建は天保9年(1826)のことで新しく、
大森の八剱神社から分祀したもので、祭神に天火明命は祭られていません。」

これを「違い」と読むか、文政にしても天保にしても9年なのだから、小林先生の
転記ミスかも知れないという可能性もあるかも。
(中学の時の)恩師を疑っちゃいけないのですが・・・・・
先生からの私信では、ご高齢で体調がすぐれないので郷土史の仕事からは手を引くと
書かれておりましたので、この件のご確認は難しそうです。

もうひとつ、小林先生がご指摘の「祭神に天火明命は祭られていません」の件。
これは両社の祭神を見較べればそのとおりです。
では、その天火明命とはいかなる神様かと申せば、天火明命 - Wikipediaによれば
「尾張氏(尾張連)、海部氏など多くの氏族の祖神であり」「名前の「天照国照」「火明」から
わかるように太陽の光や熱を神格化した神」とのことです。
ただし「天照」の名があるが「天照大神」とは別の神である、とも書かれています。
この神様がなぜお祀りされていらっしゃらないかは、現在のところ、私の見解はまとめきれて
おりませんが、尾張の各八剱神社さんには神様は三柱のところも二柱のところもアリなので
とりあえずはスルーしておきます。可能性としては大森の八剱神社さんから、森孝新田に
御霊を分けて頂いた時のカクカクシカジカかと・・・

さらに、もうひとつ
今度は先の神社明細からです。
境内神社 1社 御嶽社」の記述です。八剱神社(森孝新田)その2で書きましたように、
本殿の両側に小祠が一社ずつあり、いま一つ境内にありましたので、合計三社の小祠の
神様が不明でしたが、どうやらそのうちの一社は御嶽社さまの可能性が出てきました。
先ほどの明細では、御嶽社さまは「建物 竪1尺2寸、横1尺」とのことです。
御嶽社さまの社殿が、明治初期の報告ままとは到底思えませんが、もしかしてお社を
新調するときにサイズにこだわりがあったのなら、このサイズに近いのは、本殿両脇の
小祠よりはむしろ、境内にあって町内会長さんより「津島さんでは」と教えていただいた
小祠こそ御嶽社さまなのかも知れません。

すると本殿の両脇に控える左右同サイズの小祠は何かとなります。
私はこれを両社とも津島さん(お天王社さん)だと見ます。
守山区のあちらこちらの町内に天王社さんが分布しておりますが、なかには村社の
境内に遷座したお社もあります。神社の統廃合とか区画整理とか、戦災とかですね。
ところが森孝新田には天王社さまが見つかりません。←ここ重要です!!
ちょっと気になるお堂は四軒家の西方にありますが・・・・・
もしかしたら、もともと森孝新田の町角にあったお天王社さんが、村社である八剱神社さまの
境内に合祀させられたということは、そんなに無理なお話ではありません。
事実、大森の八剱神社さんには近在のお天王社さんが集められておりますから。

以上、大変お世話になった町内会長の高木様に、私なりの私見をもちまして
お答えさせていただきました。
[ 2012/11/23 06:32 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

八剱神社(森孝新田)その3 

八剣神社森孝20121118-18
農村振興事業の記念碑
この石碑はもともと外にあったのを境内に移設したものです。
森孝新田の歴史の一こまなので、後日あらためて別枠でご紹介します。
写真手前は旧の手水鉢です。


八剣神社森孝20121118-13
厄年奉納の記念碑
この神社には多くの厄年奉納記念碑があります。
これは文字通り、厄年を迎えた氏子が神社に奉納をした記念碑で、この写真では平成18年度の
厄年一同が記念碑かたわらの水銀灯を奉納したことを記しております。
こうした奉納記念碑が多くあるということは、神社の奉賛が老親から現役世代に、
年寄りから青年へ正しく引き継がれている証左であり、まことに健全な神社維持が
できている喜ばしい例でもあります。



八剣神社森孝20121118-14
厄年奉納記念碑、石灯籠、幟り立
昭和58年度の厄年奉納は「参道」と刻まれております。
氏子総代と厄年代表が相談して、その年度は何にするのか決めるのでしょうか。



八剣神社森孝20121118-15
本殿前の狛犬(右側)
左前足で毬をおさえる守山区に多いスタイルです。
「もりやま」誌によれば、昭和5年奉納の「西比利亜(シベリア)出征記念」とのことです。
目にはガラス玉がはめ込まれているのか、カメラのストロボに青く光っております。



八剣神社森孝20121118-16
本殿前の狛犬(左側)
これまた右前足で子犬をおさえる伝統的な形です。
こちらは昭和5年の奉納で、「山東記念」とのことです。




八剣神社森孝20121118-17
厄年記念、大森五黄寅会共同奉納記念碑
平成3年の奉納記念碑です。
五黄寅、ごおうのとら、ごうのとら、と言われるのは大正3年・昭和25年・昭和61年生まれです。
平成3年度はそれぞれ77才、41才、5才です。

次回は神社の由緒に私見をまじえてご紹介します。
[ 2012/11/22 06:00 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

八剱神社(森孝新田)その2

八剣神社森孝20121118-7
八剱神社の本殿です
本殿を囲む石柱の玉垣。門扉には先の尖った剣状の装飾がほどこされています。
防犯の意味も多少はあるかも知れません。
本殿の両側には小祠があります。この写真では石柱の陰になって見えません。



八剣神社森孝20121118-8
左側の小祠
このお社は何なのかはわかりません。


八剣神社森孝20121118-9
右側の小祠
おそらく左右の小祠はまったく同じ規格のものかと思われます。



八剣神社森孝20121118-10
拝殿右(東側)にある境内社
神社のご案内をしてくださった町内会の高木会長は、津島さんではないかと仰ってみえましたが
それを示すようなものは見つけられませんでした。



八剣神社森孝20121118-11
倉庫兼餅投げ場
祭礼の時にはここから餅投げをするそうです。




八剣神社森孝20121118-12
社務所
境外の東隣にありました。

さすがに村社の規模になると見どころがたくさんあります。
いわゆる社殿はここまでです。次回は石碑をご紹介します。
そのあとお社の由緒と、多少の私見を書く予定です。
[ 2012/11/21 06:09 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

八剣神社(森孝新田)

八剣神社森孝20121118-1
八剱神社(森孝新田) は、国道363号線(出来町通)が東名高速道路と交差する
内側で、温泉、レンタカー、スシローあたりの北側に位置します。
神社の南側は裏道とは思えない広い道路に接し、桜の時には夜桜のぼんぼりがとても
きれいな場所です。



八剣神社森孝20121118-2
正面の鳥居と森孝西コミセン
この道路から約50mのところに社殿があります。すでに国道(出来町通)からは150mくらい
離れていますので自動車往来の喧騒もなく、野鳥のさえずりが響き渡ります。



八剣神社森孝20121118-3
鳥居と社名碑
参道の両側にはいろいろな石碑があります。多いのは厄年の奉納記念の石碑です。
社外のものとして「農村振興事業の碑」、珍しいところでは「敬宮愛子内親王殿下御誕生
記念植樹」の記念碑がありました。


八剣神社森孝20121118-4
二番目の鳥居と狛犬
狛犬さんは右側が毬を踏み、左側が子供を押さえているスタイルです。
これも厄年記念の奉納です。



八剣神社森孝20121118-5
三番目の鳥居と手水舎
吐水龍もありました。これは別枠でご紹介します。
ここで手を清め、口をすすぎます。柄杓柄がプラスチック製なのは珍しいかも?


八剣神社森孝20121118-6
拝殿の前に出ました
清浄な空気と、鳥のさえずり、木もれ陽と木々のざわめきを味わいながら拝殿の前に
到着しました。氏子の皆様の奉仕活動のたまもので、境内はとてもきれいにお手入れが
されていらっしゃいます。

次回は拝殿のうしろに鎮座される本殿と、境内社をご紹介します。
[ 2012/11/20 06:46 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(守山下町)

元屋根神20120817-1
矢田川橋を渡った瀬戸街道は
登り勾配に守山区に入り、やがて「どんどん庵」のところで旧道が分かれます。
ところがこの旧道、40m行って右に折れ、さらに50m行って現在の瀬戸街道に再び合流する
短い区間の旧道です。このスタイルは瀬戸街道・大森でも見られます。
かっての瀬戸街道はあちらこちらに折れ曲がりがあったようです。



元屋根神20120817-2
旧道分岐点にお社があります
写真のようにブロック塀に囲まれ、入口が鎖で施錠されているため、どちらのお社か
わかりませんでした。



元屋根神20120817-3
お社のクローズアップ
近在の天王社さまが朱塗りで、覆い屋根の下に鎮座している形態なのに対して、
塗装が無く、お社がそのまま白日のもとにさらされています。



元屋根神20120817-4
旧道側から瀬戸街道に向かって撮影
施錠されている様子が見られます。
ブロック塀の左側面に貼られた案内板は「ふれあい広場」と書かれています。




元屋根神20120817-5
瀬戸街道から旧道側に向かって撮影
大きな献灯があります。これが決め手となりました。



元屋根神20120817-6
これには「昭和11年 9月吉日」の銘が刻まれています。




元屋根神20120817-7
こちら側には「下町一同」と刻まれています。

守山郷土史研究会会報「もりやま」第6号、1987年の特集「守山の石造物(その2)」-社寺奉納物-に
よれば、この銘文は「守山下町天王社」と完全一致しました。
次の文献は、名古屋区史シリーズ「守山区の歴史」、平成4年ですが、この中に赤いラインを
引いた箇所がこの天王社さんに関係するところです。
守山区の歴史s

この文献はいくつかの重要事項を語っています。
・元々は鍛冶屋の南にあったこと
・それが屋根神になったこと
・瀬戸街道と旧道の角に移っていること

これの検証のために、赤いラインの前段に書かれている鍛冶屋さん(畑中氏)を訪ねました。
現ご当主は文中にある畑中権吉氏のお孫さんでいらっしゃいました。
ご幼少の頃のご記憶として、鍛冶屋(鉄工所)の隣に確かに屋根神さんがあったそうです。
今ではその屋根神さんがあったお宅は取り壊されて無いそうですし、家業の鉄工所も
代替わりしてからは廃業されたそうです。

畑中さんからは鳥羽見の天王社さんの場所を教えていただきました。
感謝
[ 2012/11/19 06:30 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(喜多山)

2012年11月13日追記あり

喜多山の天王社
守山東中学の「郷土の歴史」1982年版より転載
喜多山20121006-6

喜多山20121006-1
喜多山駅の北側になります
この赤丸のあたりに天王社さんが「ありました」。



喜多山20121006-2
上空からの写真ではこんな感じでした



喜多山20121006-3
更に拡大すると・・・
冒頭の中学生たちの文中に「敷地が丸で、木の山になっていて」の雰囲気がでています。




喜多山20121006-4
喜多山駅高架工事
ここには天王社さん以外にも、レンガ造りの古い名鉄の変電所がありましたが、
すっかり取り壊されて、更地になってしまいました。



喜多山20121006-5
このあたりかな・・・
近くで畑をされていた奥さんにお聞きしましたら、大きな桜の木の下に小さな
祠がありました、と仰ってみえました。
名鉄の高架の工事が終わったら、また建てられるのでしょうか?
取り壊しの経過は次のページが詳しく書かれています。
瀬戸電ニュース 「喜多山検車区解体工事 6月19日の様子」
いくつかある写真の中に、「喜多山稲荷大明神」の赤い幟り旗が写っていますね。
中学生が「(天王社の中で)ここだけとりい(鳥居)があり、・・・」と書かれた意味が
わかりそうです。
お社が取り壊された頃の瀬戸電ニュースです。
瀬戸電ニュース 「喜多山駅周辺高架化工事 2010年2月7日の様子」
一番最後の写真説明のあたりです。

2012年11月13日追記
守山郷土史研究会「もりやま」第26号、2007
産業遺跡「喜多山変電所」より転載


喜多山変電所の南側に隣接して喜多山稲荷が鎮座しています。
元々ここには瀬戸電の祖、加藤杢左衛門の銅像が安置して有りました。
しかし戦時中の「金属供出」の例に漏れず銅像も運び去られてしまい、永い間台座だけになって
風雨にさらされていました。
その台座が「正一位喜多山稲荷」の由緒です。
かつて(お堀の中に有った)本町駅の上に、特に円頓寺商店街にゆかりの有る芸妓衆達の厚い信仰を
集めていたお稲荷さんがありました。
今となっては経緯は不明ながらもこのお稲荷さんが加藤杢左衛門の台座の上に遷座されて来ました。
1953年(昭和28年)のことでした。
現在でも瀬戸電の運行に携わる人達が集まって毎年「初丑祭(2月初旬頃)」を催し、
「安全と商売繁盛」を祈願しています。


[ 2012/11/14 06:47 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(町北3)

町北20120817-0
瀬戸街道 町北交差点の少し大曽根寄りにある天王社さんです。



町北20120817-1
鳥居のある 近在では珍しい天王社さんです。




町北20120817-2
高い位置にお社があるのは
瀬戸街道の路面が、かっては今よりも高い位置にあったためと言われております。
[ 2012/11/13 06:18 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

秋葉神社(下志段味)

秋葉社20120908-10
秋葉神社さんはなかなか広いです
社殿の手前に広がる境内地では、お祭りや行事も行われるのでしょうね。
昔はこの境内に郷倉があったそうです。




秋葉社20120908-7
天王社さまのようですね
この秋葉さんにほど近い、下志段味の八幡さまの境内あった天王社さまにも
提灯がありました。尾張では天王社さまと言えば提灯山ですから、
このご縁で提灯が奉納されているのでしょうか。




秋葉社20120908-8
整然と並べられた石塔群
左から・・・
千度参り:守山区に広く分布しているお百度参りに対して、さらに強い願掛けと言われる
「お千度参り」の石塔です。守山区ではここだけかも知れません。
報徳:報徳と言えば二宮金次郎こと二宮尊徳の道徳思想であり、
この地においても報徳活動が盛んであった証左でありましょうか。
観音力:仏様の最高のチカラとされる観音力にお祈りする石塔でしょうか。
億陀佛
念佛
五穀豊穣:文字通り、五穀豊穣を願ったのでしょうか。
水神:守山区では庄内川と矢田川の氾濫に長年苦しめられてきました。
そうしたところの村社には、このような水の神様がいらっしゃいます。



秋葉社20120908-9
左側:廻国塔 奉納大乗妙典六十六部
右側:庚申塔


秋葉社20120908-11
観音堂の中央にある奉順禮
西国三十三所
當國三十三所
名護屋三十三所
昨日ご紹介の七番さまは、當國三十三所さんのお一つだったようですね。
[ 2012/11/10 06:56 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

秋葉神社(下志段味)

秋葉社20120908-1
下志段味の東に、秋葉さんがあります。
志段味支所や中学校から、神領へと向かう県道沿いです。



秋葉社20120908-2
下志段味の土地区画整理組合さんが向かいにありました




秋葉社20120908-3
今にも降りそうなお天気でした。
秋葉さんは火災除けの神様です。境内社としての秋葉さんはときどきお見かけしますが、
村社規模の秋葉さんは、守山区ではこちらのお社だけでしょうか。




秋葉社20120908-4
拝殿と本殿が一つ屋根の下に同居している、これまた珍しいスタイルです。
完全にオープンながら、とてもきれいにお世話がされており、清々しい気持ちになります。
天井には裸電球がぽつんと一つ。どんなときに電球が灯るのでしょうか。




秋葉社20120908-5
お堂の中にたくさんの石仏さまがいらっしゃいます。
神社の境内にこうして混習されていらっしゃる例も珍しいと思います。




秋葉社20120908-6
よおーく拝見すると、仏様の頭の上の方に「七番」と刻まれていますね。
これは三十三ヶ所とか八十八ヶ所巡りの石仏さまのようです。

続きます
[ 2012/11/09 07:00 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(市場の西)

守山探検隊の
守山区制50周年記念コースまちあるきイベントもゴール間近のところでした。

鳥羽見20121003-1
守山城址から、ゴールの宝勝寺さんを目指して歩いておりましたら


鳥羽見20121003-2
急に視界が開けて
とっても見晴らしの良い高台に出ました。


鳥羽見20121003-3
はっと、気を感じて横を見ると!
またまた天王社さんを見つけてしまいました。
毎週毎週お社を巡っておりますと、お社が醸し出す気に敏感になって、
はっとさせられることがあります。



鳥羽見20121003-4
あー、でも雨樋があるなぁ
別にいけなくないですが、天王社さんの覆い屋根に雨樋があるのには
今回初めて気が付きました。いや意外とレアなのかも知れませんね。



鳥羽見20121003-5
レアといえば、・・・
透明なアクリル板が貼ってあります。
西を向いた高台ですから、季節風は大変なものかとお察しします。
つまり雨樋にしてもアクリル板にしても、それだけ地元の人たちの篤い信仰心の証です。
こうしたお社は善良な気が充満しているのでしょうね。
[ 2012/11/07 06:35 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(守山東)

天王社20121103-0
守山東交差点北の天王社さま
すいどうみち緑道が守山駐屯地の東南に接する交差点にあります。
守山探検隊の区制50周年記念コースの途中で気が付きました。



天王社20121103-1
あらら・・・
ガイドの先生も、参加者の皆様もチラ見だけで素通り・・・




天王社20121103-2
解散後に戻ってきましたとも



天王社20121103-3
やっぱり天王社さんですね
戻ってきて、よくよく拝見しましたら、お堂の中にお社が三つ鎮座されていらっしゃいます。
天王社さまが中央だとして、左右はいったい・・・?
今度地元の人に教えていただきましょう。



天王社20121103-4
山の神様です
三つもあります。今のこの場所からは想像もつきません。



天王社20121103-5
南方向から見るお社
瀬戸街道の方から北を向いて撮影。



すいどうみち緑道と周辺史跡散策
平成23年の守山探検隊のコースに史跡として掲載されていて、
実際に現地説明もあったのですね。昨年は参加できなくて惜しいことをしました。
[ 2012/11/06 06:37 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

生玉稲荷神社(小幡)その2

生玉20120715-2-1
御寄附芳名板
夏まつりの準備が始まりました。
ご寄付を頂いた方々のご芳名を掲示します。あらかじめ氏名のプレートを用意し、
それを掲示板にはめ込みます。



生玉20120715-2-2
拝殿もきれいになりました
樽酒は地元の銘酒「東龍」ですね。



生玉20120715-2-3
福きつね様
お稲荷様ですから、狛犬さんではなくてお狐様です。




生玉20120715-2-4
お狐さま
福きつね様の上座にいらっしゃいます。




生玉20120715-2-5
左の社殿へと続く石灯籠



生玉20120715-2-6
電飾の準備
[ 2012/11/02 06:19 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

天王社(小幡山脇)

小幡南20121006-1
山脇の天王社さん
現在の住所表示では「小幡南3丁目17」になります。名鉄瀬戸線小幡駅から東に300mほど
行った線路の南側にあります。山脇というのはかっての小字です。



小幡南20121006-2
1982年の調査
市立守山東中学校のクラブ活動で取材した内容が「郷土の歴史」に掲載されています。
それによれば、小幡の他の多くの天王社が「農民が資金を出して建立」したのに対して、
こちら山脇の天王社は「地主が資金を出して建立」と書かれています。



小幡南20121006-3
1982年当時
このお社の背面の位置には「山脇の名物"にわとり小屋"」があったそうですが、
現在ではカーポートになっています。
もはや街中では時を告げるオンドリは飼えない時代となりました。



小幡南20121006-4

小幡南20121006-5

しばらくはこうして当時の中学生の調査研究をパクリますが、守山区の神社を一通り
巡り終えたら、個々に裏付け調査をしてみようと思います。
[ 2012/10/31 06:40 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

間黒神社(幸心)その3

間黒社20101008-3-1

間黒神社本殿
拝殿の真後ろ、ひな壇の最上段に本殿が鎮座されています。
昨日掲載の「間黒神社(幸心)その2」の間黒神社略誌によれば、社殿は水禍を避けるため
二間の盛土の上に座す、とのことでこの石段の意味もわかるというものです。




間黒社20101008-3-2
本殿左側の境内社
左側の扉が壊れているお社が御嶽神社、右側の朱塗りのお社が
津島社さまです。



間黒社20101008-3-3
本殿右側の境内社
左側(本殿側)から秋葉神社金比羅神社奥山神社白山神社さまです。



間黒社20101008-3-4
山神社
山の神様のお社です。こちらも周囲の地面より高くしてあります。



間黒社20101008-3-5
弁財天さまです
こちらは随分境内のはずれで、盛土も気持ち程度です。
[ 2012/10/30 06:05 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

間黒神社(幸心) その2

間黒社20101008-2-1
神明橋
境内の真ん中に橋があります。下を流れるのは古川と途中で合流した八ヶ村用水です。
橋の向こう正面に見えるのが拝殿。
さらに拝殿の中を通って向うに見えるのが本殿です。



間黒社20101008-2-2
間黒神社略史




間黒社20101008-2-3
間黒神社についての口伝




間黒社20101008-2-4
手水舎
行事のとき以外には水抜きされているかも知れません。




間黒社20101008-2-5
鬼瓦



間黒社20101008-2-6
龍の彫刻
拝殿正面の鬼瓦から下に視線を移すと、龍の立派な彫刻があります。
龍の左右には虎の彫刻があり、それが次の写真です。



間黒社20101008-2-7

間黒社20101008-2-8
[ 2012/10/29 06:35 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

間黒神社(幸心)

間黒社20101008-1
間黒神社 は、幸心の村社です。
やはり大通りに面している訳ではありませんので、グーグルマップを印刷して持参するか、
ナビのお世話になります。



間黒社20101008-2
鎮守の森 と言う言葉が似つかわしい、広大なご神域です。



間黒社20101008-7
上空から見ると・・・
19号線バイパス、準工業地帯、田畑の中に見事に長方形の森が残されています。



間黒社20101008-3
南側の正面鳥居
かってはこの鳥居から南に表参道が伸びていたそうです。



間黒社20101008-4
神明社の鳥居
間黒社の鳥居から少し東に神明社の鳥居があります。
鳥居の奥に見える築山が神明社さまです。



間黒社20101008-5
神明社
かっては別の場所に鎮座されていたのが、矢田川の氾濫により、この境内に遷座
されたのではないかとの口伝があるそうです。



間黒社20101008-6
百度石
大正13年の建立。
いつも不思議に思いますが、お百度参りって現実のものなんですよね。
どうしてもテレビの時代劇のシーンがイメージされますが、そんなに昔のことでは
ありませんね。

続きます
[ 2012/10/27 06:20 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)

斎穂社(大森)その3

斎穂社20121007-1
斎穂社さまの例祭です
2012年10月7日(日)、斎穂社さまで例祭が行われました。



斎穂社20121007-2
祭壇とお供え




斎穂社20121007-3
ご神職による神事
神事が始まりました。




斎穂社20121007-4
氏子の皆様
ご神職による祓詞奏上のあと、氏子の皆様の玉串奉納がございました。
私は玉垣の外からときどき写真を撮らせていただいておりましたが、
一番最後の氏子さんが手招きで私を呼び寄せ、一緒に付いてきなさいとのお言葉。
我が人生で初めての祭事経験となりました。



斎穂社20121007-5
後片付け
神事が無事終わりました。ご神職には隣接の大森新田集会所にお移り頂き、氏子の皆様は
てきぱきと祭壇や幟の後片付けをされました。
新田の氏子の皆さん、よいものを見せていただき、そのうえ奉納のお供まで加えていただき
ありがとうございました。
[ 2012/10/26 06:18 ] 神社 | TB(0) | コメント(0)
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Author:加藤
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