終戦後の 昭和20(1945)年10月、守山の連隊にはアメリカ陸軍第25歩兵師団がやってきました。
彼らが昭和21(1946)年2月に大阪に移駐したあと、米陸軍第5航空隊所属第1通信隊が昭和21(1946)年6月より
無線テレタイプ通信の業務を開始しました。
昭和29(1954)年から翌昭和30(1955)年にかけて、名古屋の都心にあった第5空軍本部や他の部局が入る
新しい建物を守山に作るために、駐屯地にあった多くの古い建物を取り壊し、通信隊の無線通信機や
アンテナは大府の通信所に新たに再構築されました。
昭和31(1956)年、第5空軍本部は名古屋から守山に移駐しましたが、移駐まもなく昭和32(1957)年9月には、
再び東京の府中へと移って行きました。
ここまでは
‘Moriyama Compound Today’, 14 February 2004 より抄訳して引用しました。
本日の話題は、この第5空軍が守山にやってきた昭和31年頃のお話です。アメリカ村終戦後、進駐してきたアメリカの軍人、軍属が居住した地区を、当時の日本人はアメリカ村などと
呼んでいました。そして、ここ守山でも同じようにアメリカ村と呼んでいました。
その話題はしばらく私の中でもネタとして温存していたら、使うのをすっかり忘れておりました。
先日赤井さんとの会話の中で、「陸軍の境界標柱を思わぬところで見つけて、近くで魚釣りをしていた
おじいさんとそのことを話していたら、この近くにアメリカ村があってねと聞きましたよ」、とのことでした。
私はとっさにスミスタウンのことだと直感し、ブログネタとして記憶の中に仕舞っぱなしにしていたことを
思い出して、本日は記憶を整理して、他の資料で補完しながらブログにまとめています。
スミスタウン今からご紹介する守山区におけるアメリカ村のことを、正式にはスミスタウンと呼称したのか
そこまではよくわかりませんが、以下スミスタウンと書きます。
第5空軍の本部が守山に来ると決まって昭和30(1955)年5月13日に守山地区日米地方連絡
協議会が設立されました。そうした中でおそらく愛知県から米軍居住用の住宅用地確保と
住宅建設の指示が守山市にあったのかと思います。
スミスタウンの配置図小幡緑地公園本園に県道に面して見返池(通称しゃぼ池)があります。
今では名進研小学校の北西側で、白沢川の水源池と言ったほうがわかりがよいかも知れませんが。
その県道と、見返池から流れ落ちた白沢川の交差する位置の橋が「白沢橋」で、その橋から下流に向かって、
白沢川の両側に44軒の住宅が作られました。
上の配置図のタイトルは「SMITH TOWN U.S」となっていて、おそらくこれが正式名称だと
思われます。
竹元さんによれば、このアメリカ村には米軍の将校が住んでいたとのことです。
つづく