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大池の石造物

大池20130104-0
松ヶ洞地区の大池
旧松ヶ洞、現在の龍泉寺2丁目に大池があります。
その池畔に水神様の石碑と、観音様のお堂があります。


大池20130104-2
樹に寄り添うような水神様
うっかりすると見過ごすような水神様が花壇の中にあります。
私は何度もここには撮影に訪れていますが、今まではまったく気が付きませんでした。



大池20130104-3
ここの水神様は石柱です
守山区の多くの水神様、山の神様はなみだ型の自然石が多いのですが、
こちらの水神様は石柱になっています。
湯のみ茶碗がありました。今でもお参りされていらっしゃるんですね。



20130104-3.jpg
観音堂もあります
池と観音堂、あるいはお地蔵さまはよくある組合せで、そこには池にまつわる
悲しい事故や事件に起源を発するものもあります。
こちらにも何か言われがあるのでしょうか。



大池20130104-4
観音様とお地蔵さま
お堂の中には観音様とお地蔵さまが並んでいらっしゃいます。
ただ観音様はお堂の真ん中にいらして、お地蔵さまはその隙間ということは、もともと
観音様がいらっしゃったところに後からお地蔵さまがいらっしゃったのかも知れません。



大池20130104-5
龍樹観世音菩薩様と刻まれています。
龍樹をwikiで検索すると次のページがございました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9
台座の上、観音様のお足もとにキャンディが1個お供えされていました。
地元のおばあちゃんでしょうか、それとも子供のおやつでしょうか。
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[ 2013/01/17 23:23 ] 石碑 | TB(0) | コメント(2)

不老泉

石碑20120915-1

先日のレポ以来ずっと「不老泉」「馬州」「木祖同人」をキーワードに考えていました。
確かに銘酒「不老泉」、酒豪「馬州」まではわかるとしても、木祖同人とは俳人馬州の弟子なのかとか
難問山積みでした。

本日再び石碑の場所を訪れ、生い茂っていた夏草を刈り取り、碑文が判読できるように
いろいろな角度からストロボ撮影を試みました。
その結果はなんと「馬州」ではなくて「信州」でした。

不老泉&酒をインターネットで検索してみると、トップに滋賀県の上原酒造さんの「不老泉」が出ます。
ただ他県にはこの銘柄は無さそうです。

酒にこだわらなければ長野県安曇野市の中房温泉(なかぶさおんせん)には、不老泉があります。
これならば確かに信州だし・・・・・
ああしかし長野県安曇野市の中房温泉のホームページによれば、開湯は文政4(1821)年と書かれています。
石碑の建立かどうかは知りませんが、石碑には安永六(1777)年丁酉二月と書かれていますので、
中房温泉の石碑をパクってきたのではつじつまが合いません。

おそらく「不老泉」とは現代でいうところの名水、清水のことだと思われます。
石碑と寄り添って置かれている水鉢の存在を考えると、それが自然だと思われます。
どなたか、この石碑がここに置かれた由来をご存知でしたら、ぜひともご教示のほどお願いします。
[ 2012/09/15 13:50 ] 石碑 | TB(0) | コメント(2)

頌徳碑(JA中志段味)

石碑と言うものはせっかく目立つ場所に建てても、ほとんど多くの興味ない人間にとっては
その存在すら目に入らないらしい。ましてや建てられてから数十年以上を経過すると、
「関係者」すら物故しないまでも代替わりして、まわり知らない人だらけとなります。
そんな運命なのか、いやこれは違うのかわかりませんが、私がよく車を停める目の前に
ある石碑をご紹介します。

公徳碑20120908-1

場所は中志段味の交差点にある、JA中志段味の駐車場です。
道路の拡幅で「とい面」のガソリンスタンドは無くなりましたが、新しい建物が立ち並び、
学習塾やファーストフードが進出しています。

公徳碑20120908

原文書き取り


頌徳碑
君姓深田稱市太郎明治十五年志段味村ニ生ル公共心ニ富
ミ東春日井郡會議員同参事會員同議長志段味村長愛知縣
町村長會副会長愛知地方事務所参與委員志段味信用組合
長産業組合東春日井郡部會副会長同組合愛知支會監事東
春日井郡農會評議員同郡養蠶業組合副組合長志段味村農
業會長名古屋地方裁判所調停委員愛知縣家屋税調査員其
他村會議員當選七回及各種公務委員トナリ更ニ昭和三年
高牟神社社司次デ宮司ニ就任大日本神祇會評議員同會愛
知縣支部理事愛知縣神社廳理事トナル殊ニ特筆大書スベ
キハ君ガ村長在職中縣道編入並改修庄内川三橋架設ニ當
リ最モ力ヲ盡シタルハ衆目ノ斎シク之ヲ認ムル所ナリ茲
ニ郷黨相謀リ頌徳ノ碑ヲ樹テ後昆ニ傳フト爾云
  昭和二十一年四月
         従三位長谷外余男篆額
             衆議院議員 神戸眞撰
                   田島仲高書



[ 2012/09/12 07:47 ] 石碑 | TB(0) | コメント(0)

八ヶ村用水記念碑

余慶橋の交差点を、白沢川に沿って、庄内川の方向に200mほど歩くと、道はやがて
庄内川の堤防道路に突きあたり、左にとれば堤防道路を松河橋の方向に向かい、
右にとれば白沢川を渡って愛知霊園へと道が続きます。

その堤防道路との突きあたりの脇に「八ヶ村用水導水路竣工記念碑」が立っています。
下の地図で赤マルのところです。

八ヶ村用水

八ヶ村用水20120826-1


裏面にこの記念碑の由来が書かれています。
---------------------------------
八ヶ村用水導水路は昭和二十五年八月庄内川
大出水のため殆んど壊滅に等しい被害を受け
た。時に関係者一同善後策研究の結果国費の
補助を得て恒久的復旧工事の実施を決意し八
ヶ村治水水利期成同盟会を結成市の委託工事
として翌二十六年三月着工した。尓来関係当
局及び地元民必死の努力により幾多の難関を
超え昭和二十九年九月竣工した。この間丹羽
兵助会長の絶大なる尽力の結果県直営の巨費
を投じ床止堰堤復旧工事の完成を見両者相俟
って用水取入の完璧を期することを得地元民
多年の宿望と幸福を達成したのである。
昭和三十五年三月建之
-----------------------------------

八ヶ村用水20120813-2



はるか上流より、庄内川を分流させ、最後にこの水門に導いています。

八ヶ村用水20120813-3



導かれた水は庄内川の堤防の下を抜け、ここで向きをかえて庄内川と並行して流れます。

八ヶ村用水20120813-4

解説:守山郷土史研究会会誌「もりやま」第5号より
八ヶ村用水は昭和25年の水害のため大きな被害を受けた後、昭和29年に初めて恒久的な堰堤、導水路が
建設された。その記念碑である。八ヶ村とは川村、大森垣外、牛牧、大永寺、金屋坊、守山、瀬古、
幸心をいう。八ヶ村用水のはじまりは分からないが、八ヶ村用水と一体ともいうべき「御用水」は
寛文3(1663)年創設といわれている。「御用水」とは庄内川の水を名古屋城内まで導いた、
名古屋最古の上水道といわれているものである。
天保12年の川村村絵図を参照すると、左図の如く、御用水の杁の上流に六ヶ村用水の杁が見える。
御定井(ごじょうい)とは「川通りに石を並べ、杭木を打、せき留、みずかさを持せ、用水をかけ候」
施設である。(戦後まで30センチ大の玉石が高く積まれた、定井と思われる跡が残っていたとも聞いた。)
明治9年、御用水廃止に伴って、六ヶ村用水と御用水の水源を合口し、入樋位置を川村川脇に改めた。
これにより文字通り八ヶ村用水となったわけである。杁樋の場所はその後も何度か替えられたようだ。
今よりはるかに川底の高かった庄内川は絶えず洪水をひきおこし、土俵と杭木で苦労して築いた堰が、
その晩一夜で流されてしまうことも珍しいことではなかった。
堰堤が流されるとその度に、川村の土木委員は自転車で飛び回って八ヶ村から人出を集めねばならなかった。
早春まだ冷たい川の水に、首までつかって杭木を打ち込む仕事は決して楽なことではない。
(江戸時代の「徇行記」にも、「川村定井破損ノ時手伝人足出ス」と八つの村の記事にある)
碑文「地元民多年の宿望と幸福を達成した」とは八ヶ村の人々の、そのままの気持ちであったろう。
八ヶ村用水灌漑面積 約二十町歩余(昭和60)


八ヶ村用水村絵図

↑ 村絵図:この中での着色と、かっこ書きの文字入れは私が行いました。
[ 2012/08/23 21:50 ] 石碑 | TB(0) | コメント(0)

大元帥陛下御統監之跡

時代がまだ昭和だったころのお話です。それも戦争前の昭和2年11月。
即位されて間もない昭和天皇は、守山区大字川字東山の高台から陸軍の大演習を
統監されました。

場所は小幡緑地本園の北西、現在の喫茶ライトさんのところから住宅街に入り、
高台に着きあたるところです。

昭和天皇統監碑1


車のすれ違いも難しいような坂道の着きあたりに森が見えます。

昭和天皇統監碑2


坂道はこの石垣のところで頂上となり、ゆるくカーブを描きながら急な下り坂となって離れます。
この石垣に階段と手すりがあり、遠くから見えた森へと続いています。
今回ご紹介の「大元帥陛下御統監之跡」の石碑はもう道路から見えています。

昭和天皇統監碑3


石碑は演習地小幡ヶ原の方向を向いて、正面に「大元帥陛下御統監之跡」と書かれています。

昭和天皇統監碑4


まるでどこかの古代遺跡の柱状列石と心柱のような配列です。

昭和天皇統監碑5


裏側にこの石碑の由緒が書かれています。

昭和天皇統監碑51


昭和天皇が立たれたであろう御座所より小幡ヶ原方面を見ます。
下の写真の中央に、金城学院のトンガリ帽子がかろうじて写っています。
現在ではご覧の通り、たぶん何も見えませんが、昭和2年当時は民家や公共物はほとんどなく、
大演習は見えたのでしょう。

昭和天皇統監碑6


この一角は名古屋市の市有地として管理、保護されています。
傍らに(昭和)天皇傘寿記念樹の記念碑がありました。
左後ろに写っている松の木がそれでしょうか?
他にも「日本初ライフル銃弾遊泳射撃跡」、「西三河東山道路組合」の木柱が現認されました。
これは機会があれば別項でご報告します。

昭和天皇統監碑7


再び道路に降り立って、来た道を見ると、急な坂道らしく道路にはスリップ防止の加工が
見られ、道路はまっすぐに伸びていました。

昭和天皇統監碑8

石碑には次の通り刻まれています。
昭和二年十一月 大元帥陛下親シク陸軍特別大演習ヲ尾三ノ野ニ統ヘサセラレ十七日畏クモ
御馬ヲ吾カ守山町ニ進メ 大纛ヲ
此ノ地ニ樹テサセ給フ此ノ時豫備陸軍歩兵中尉小島克實ヲ召シテ長久手役ノ講演ヲ聴シ召サル
高松宮宣仁親王 久邇宮
邦彦王 東久邇宮稔彦王等陪従セラル是ノ日ヤ天睛レ氣淸ク濃尾ノ山川ハ爭フテ秀ヲ
御馬前ニ呈ス仰ケハ幾十ノ飛機ハ髙
碧空ニ羽翔シ俯セハ幾萬ノ貔貅ハ庄内川ヲ挟ンテ相搏チ天地為メニ震撼ス洵ニ空前ノ
盛事タリ 當時町民ハ颯爽タル英姿ヲ咫尺ニ拝シ奉リ齊シク感激措ク能ハス相謀リテ其ノ
栄ヲ石ニ勒シ後昆ニ傳フト云爾
 昭和三年九月六日 愛知縣知事正四位勲三等小幡豊治謹撰

守山郷土史研究会会誌「もりやま」第5号より解説引用
天皇統監の下に行われた陸軍の大演習は特別大演習と呼ばれ、昭和11年までに34回行われた。
本碑は昭和2年秋季大演習の際設けられた御野立所(野外統監部)に立つ碑である。
標高は66メートルの地。大演習の前後にその地方の天皇巡幸が行われるのが常であったので
該当の県市町村にとっては大事業であった。
演習参加の師団は第一、第三、第四の3個師団である。
その演習3日目11月17日の天皇の日程は次の通り。
「午前7.30大本営御出門(自動車)、途中瀬戸街道で守山尋高、龍泉寺街道では大森、
志段味東・西尋小の児童ら奉仰の熱意を受けさせられつつ、龍泉寺南方高地の下にて下車
それより徒歩にて丘の上の御野立所に御着
、演習の戦況を御覧あらせられ
午前10.00を御降り遊ばれた。」
龍泉寺街道が小幡駅前へ直接通ずる道へとかえられたのはこの大演習に備えてのことだった
北田用水は、そのため龍泉寺街道を伏越で渡るようになった。
[ 2012/08/18 23:55 ] 石碑 | TB(0) | コメント(0)

「移転記念」碑(松坂町)

移転記念1

移転記念2

松坂町の御嶽神社神域内に立てられている「移転記念」碑を調べました。
これは当地の御嶽講の霊神碑が建てられていた場所を、区画整理の時にこの場所に移転したのを
記念して建てられた石碑です。

表面にはびっしりと当時の教正さま方々のお名前が彫られています。
由緒は背面に書かれていましたので書き写します。

當山は西方高台絶景の地に鎮座有としも此度
区画整理施行の為当所に移転せしものなり
尚表記連名の氏名は当時誕生講教師なり
協力者
大森 旭大久手 松河戸 安井
味鋺 上飯田 船附町 川村各講中
名古屋市守山区川氏子一同
山下中部土地区画整理組合
大字川講中
昭和四十二年四月建之
誕生講


と言うことで、区画整理以前は現在の場所よりも西にあったこと、講の名称が「誕生講」で
あったことが読み取れます。
誕生講とは御嶽さんの講の一つで、御嶽開山の祖 覚明霊神の誕生地とされる春日井市
牛山町で立講され、その一つが現在も白沢町にあります。
参考
郷土誌かすがい 第49号
[ 2012/08/17 17:41 ] 石碑 | TB(0) | コメント(0)

餘慶之碑(よけいのひ)

松坂町御岳20120815-6

松坂町の御嶽神社さんに立っている「餘慶之碑」をご紹介します。
石碑の裏側に次の通り刻まれていました。

安藤忠三郎氏ハ守山町川ノ人嘉永五年八月ノ産長シテ御用係戸長等ノ公職ヲ務メ
テ令名アリキ明治九年戸長梅村伊三郎氏ノ後援ニヨリテ官有地畧六十町歩ノ拂下
ヲ受ケ郷黨享福ノ資ニ供セシガ明治丗年誤ツテ公有林ニ編入サレ町村管理トナル
ヤ川村民ハ特權ヲ喪ヘリ明治丗七年十一月同氏死去以来ナス所ナカリシガ大正六
年ニ至リ谷口貞治同正治岡田伊三郎ヲ委員トシ安藤源治郎安藤房輔三浦金三郎安
藤亀三郎谷口吉治郎ヲ顧問トシ商量奔走遂ニ七年五月名義変更許サレテ復タ志ヲ
貫澈スル事トナル茲ニ於テ諸氏ハ忠三郎氏當年ノ遺圖ヲ継承シ東山共有土地定欵
ヲ作リテ川百丗戸ノ為メ永遠繁栄ノ基礎ヲ立タリ川村民ヨク其定欵ヲ墨守シ勤勉
努力自彊息ムナクシバ時流ニ超越シ長ヘニ幸福ヲ享受セシ吾輩諸氏ト相識ル故ニ
後卋諸氏ノ子孫ガ餘慶ニ忸レテ報恩ノ勤行ナク遺圖ニ飽キテ感謝ノ勤業ナキノ獘
ニ陥ルフナキヲ切ニ希フテ茲處ニ共有地ノ由来ヲ記スフトセリ矣
大正九年十月愛知縣立農林學校長正五位勲四等山﨑延吉撰書

もしかしたら、拾い間違いがあるかもしれませんので、
お気づきになられましたらご教示をお願いします。

この碑文の解説を守山郷土史研究会会報「もりやま」第5号より転載させていただきます。
問題となっている「官有地六十町歩」とは川村の東山甲、乙にまたがる山林のことである。
東山甲は現在緑地公園内、東はゴルフ場に接する(人文字塔が立つ)山、東山乙は住宅地に
変わったが、西へ張り出した先端の山を余慶山といい、戦前白沢遊園地として賑わったところ。
麓に白沢池があった。


この記事のタイトル「餘慶之碑」ですが、餘慶すなわち新字体で「余慶」は
次のように説明されています。

なごや史跡探訪守山の旧街道と水屋めぐり
村人のためにつくした人の功績を称えて建てられた碑で、易経、坤文言伝にある
積善之必有余慶にのっとり命名されたという。


名古屋市:史跡・伝統的風習(守山区)
余(餘)慶とは、先祖の善行の積み重ねのお蔭で子孫が幸福になれることを意味しているという。
出典:易経「積善之家必有余慶」


川嶋(かわしま)神社
創祀の地は通称余慶山と呼ばれ、今も飛地の社地が残る。牛離レ松遺跡、
川東山古墳郡が存在する丘陵地である。


また、白沢川にかかる橋「余慶橋」もこの故事にならって命名されたものと思います。
[ 2012/08/17 15:06 ] 石碑 | TB(0) | コメント(0)
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Author:加藤
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