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渡し舟からの裏参道を考える(3)

明治時代の地形図裏参道
▲ ②の南向きルートを考える

前記事
休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(2)

前記事より引用
守山郷土史研究会会報「もりやま」第9号(1990年)
東春日井郡川村の郷(上)-大正時代の年中行事・生活点描- 滝本庄吾氏
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庄内川を渡ったあと、川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた。
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さて、河岸段丘の窪みが、「V字谷状」になった山すそのことであるならば、
V字の東側が龍泉寺山で、西側を川村山と比定することは難しくないと思います。


南ルート④
▲ 南側の参詣ルートか?
明らかに霊園の域外にのびる坂道が続いています。坂の先を見上げると竹林の
向こう側に車道のガードレールが見えます。


南ルート20160227(1)
▲ 竹林の中へと坂道は続いています
道は竹林の奥で突き当たりになり、右に折れています。


南ルート20160227(2)
▲ 竹林の中の坂道はさらに上へと登り、道なりに左に曲がります
このあたりの竹は大変手入れが行き届いていて、とてもすがすがしい道になっています。


南ルート20160227(3)
▲ 竹林から出て、先が開けてきました


南ルート20160227(4)
▲ 見覚えのある場所に出ました!
ここは昔の道の集散地で、写真中央の八十八か所の仏様のところを画面奥に向かって3本の道、
画面左右にも道、そして私がいままでご紹介した坂道、この6本が現存しています。


名古屋市都市計画図S39-S43 20160227
▲ 名古屋市都市計画情報提供サービスより、S39-S43の地図
赤い矢印を付した場所が、上の写真の場所です。
渡し舟からの参詣ルートはこれで間違いはないでしょう。
ただ現況とは随分違ってきていますが。

下津尾の渡しの舟着場から、渡し舟のルート、そして龍泉寺さんへの参詣ルートを
シリーズで考察してみました。このシリーズはひとまずこれで終わりとします。

ところで上の都市計画図で八ヶ村用水の取水口が現在と異なっている事に
お気づきになられましたでしょうか?

いずれまた稿を改めて検討してみたいと思います。
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[ 2016/02/22 20:57 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

渡し舟からの裏参道を考える(2)

明治時代の地形図裏参道
▲ 渡し舟からの参詣ルートを着色
河岸段丘の窪みは「V字谷状」になった山すそのことで、先人が仰せのところの、
「龍泉寺の山」と「川村の山」との境界とも考えられます。


東ルート20160227(1)
▲ ①の東よりのルートを想う
こんな感じで坂を上って行ったんでしょうね。奉納する神馬もこのルートだったかは
ちょっとわからないですが。


東ルート20160219(2)
▲ 東よりのルートを登りきったところ


東ルート20160219(3)
▲ 道はここで石垣沿いに、直角に曲がります


東ルート20160219(4)
▲ 登りきってから下を振り向くと
ここは、霊園の案内図が立っているところです
もしかしたら、大昔からの参詣ルートがほぼそのままに現在の階段道になっているのかも
知れません。

[ 2016/02/21 18:14 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

龍泉寺 渡し舟からの裏参道を考える

明治時代の地形図原図
▲ 再び明治時代の地形図
ここで再び明治時代の地形図を引っ張り出して、より精細に検討してみます。
等高線と道路を慎重に見極めて、あらためて赤いラインで描いてみました。


明治時代の地形図裏参道
▲ 渡し舟からの裏参道想像図
龍泉寺霊園が昭和50年に開園する前までの、いわば渡し舟からの裏参道がどうで
あったかを赤いラインで示しました。
渡し舟で川砂の堆積した洲に渡してもらい、そこを最短距離で横切り、もしかしたら
大昔の川湊であったかも知れない河岸段丘の窪みに到着します。
そこから明治時代の地形図では二つのルートが描かれていて、一つは①と付した東の
ルート、いまひとつは②と付した南に向かうルートになります。


龍泉寺20160219④

龍泉寺20160219⑤
▲ 龍泉寺霊園の西の端 竜神井戸
おそらくこの辺りが「河岸段丘の窪み」だったのではないかと思います。
ここから東に本堂の方へ向かう急斜面のルートと、南に向かうルートの2本の参詣道が
あったのか、もうすでに墓地見取図に答えが出ていますが、自分の目で確認してみました。


東ルート
▲ 垣根の向こうに竜神井戸の屋根、その延長上に本殿に向かう階段道
なるほど、なるほど、この階段道が古道とは限りませんが、こんなイメージだとしたら
さほど急峻な坂道ともいえないかもしれませんね。


南ルート①
▲ 南回りのルート
霊園の西の端、ガードレール沿いに上り坂があります。
正確には霊園の区域外になります。階段道は竹や樹木の間伐材でも使ったような、
いかにも昔の雰囲気を残したつくりになっています。


龍泉寺20160219⑤
▲ 先ほどの写真をもう一度見ると・・・
垣根や石垣の向こう側が斜面地になっているのがわかると思います。
これが階段道です。


南ルート②
▲ ガードレールの終わりから階段道を見上げたところ


南ルート③
▲ 階段道の途中で、庄内川方向を振り返り


大泉龍王①
▲ 坂道の途中にある小祠
傍らの石碑には「大泉龍王」と刻まれています。これは私にとって久しぶりの小祠発見と
なりました。石碑と反対側の傍らには泉がありました。


南ルート④
▲ 坂道はさらに続いています
前方に竹林がひろがり、その隙間から車道のガードレールが見えました。
おそらくこれが昔の南ルートなんだろうかと思います。
[ 2016/02/20 22:54 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(6)

今昔マップ下津尾の渡しマーカー最終
▲ 現在との位置対比

前記事
2016年2月15日 休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(3)

2016年2月15日の拙ブログで、「④ 河岸段丘の窪み」の位置を「龍泉寺霊園の西端」と
比定しました。これをいま少し検討してみましょう。


CA-143龍泉寺側④

CA-143龍泉寺側⑤
▲ 新旧の空中写真の方位、縮尺を調整
2枚の空中写真を重ね合わせると、河岸段丘の窪みは現在の龍泉寺霊園の西の端で、
ほぼ同じように窪みになっていることがわかります。
春日井の下津尾の渡しから舟で、川砂が堆積した洲に渡してもらい、そこから最短距離に
斜めに洲を横切り、現在の霊園の西の角あたりで曲がります。
そのまま現在の霊園の西の端に沿って山に向かい、河岸段丘の窪みに行き着いたら、
そこからいくつかの登坂ルートを選んで登った。そんな情景が目に浮かびます。

下津尾の渡しはこれにてひとまず終わります。
引き続き、「窪み」から龍泉寺さんへのルートを考えてみます。
[ 2016/02/18 22:15 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(5)

CA-143龍泉寺側①
▲ 龍泉寺側の古道を検証
③の「下津尾の渡し」で乗った舟が、どういうルートで庄内川を渡ったかは、その時々の
流路の変遷でいかようにも変わっていただろうことは前回までに考察しました。
また、渡船ルートいかんにかかわらず、龍泉寺さんへの登坂ルートはそうそう変わっては
いないだろうということも書きました。
今回はその考察をしてみたいと思います。
これまでの検討で④の河岸段丘の窪みが、その登坂ルートの始まりなのではと
前回までに書いたことを以下で補強します。


CA-143龍泉寺側②
▲ ③の渡し~④の窪みまでの相対的な位置関係
この段階で、もうすでに④の河岸段丘の窪みに至る道が鮮明に現れています。
その道は上の写真において④の番号を付したすぐ下にあります。
窪みから、もう一段下の段丘へとほぼ直角に通っていることが見られます。
その周囲には田畑が広がっています。
その道が③の方向に向きを大きく変えているのが見えるでしょうか?
その様子を写真を拡大し、色を塗って検討します。


CA-143龍泉寺側③
▲ 前の写真に対して、古道を赤く着色
河岸段丘の窪みに至る古道を赤色で着色しました。
驚くことにその先は真っ直ぐ渡し場あるいは渡し舟に見える方向に向かっています。
写真で矢印を付した渡し舟らしきものと古道を結ぶラインの途中には川砂が堆積しています。
この川砂の堆積地の地形の一部が台形状に不自然に庄内川側に突き出しています。
もしかしたら、これが龍泉寺側(守山側)の船着場なのかも知れません。
[ 2016/02/17 09:34 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

街道への誘い ふるさと守山物語

街道への誘い
街道への誘い

本日書類を整理していたら、下の古新聞が出てきました。
守山ホームニュースの1997年7月版です。
街道への誘い 守山ホームニュース 小サイズ
[ 2014/05/05 11:36 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

ほっぽ山の里道

現在の地形図に重ね合わせ
ほっぽ山の里道
ほっぽ山を縦断して、吉根から大森に通じる昔の里道が、現在の踏査ルートに微妙に
合致しないのがよくわからなくて、いろいろと検討を重ねています。

うまく合致しないのは、地図の精度が悪いのか、それとも私のパソコン操作が悪いのか、
なかなか糸口がつかめません。

もう一度「今昔マップ」を眺めてみました。
現在の地図に、今昔マップで得た昭和13年の里道を重ね合わせたのが、上に表示した地図です。
今昔マップではこの昭和13年以外に、明治24年測図の地図から見ることができます。
順番に里道の変遷に注意しながら見て行ったところ、明治24年から昭和22年までの
里道はまったく同じでしたが、次の昭和34年以降はゴルフ場ができたためか、里道そのものが
書かれなくなっていました。今昔マップからだけでは解決のヒントが得られませんでした。

それで手持ちの「明治24年測図」と「昭和35年発行版」を注意深く見てみました。
イメージスキャナで無意味かも知れませんが1200dpiでパソコンに取り込み、慎重に里道を
着色し重ね合わせたのが下の地図です。



明治24年昭和35年-2
印刷原稿でトンボを打つような、決定的な位置合わせの目印がないために、両者の地図で
適度な妥協をもって重ね合わせております。

その結果は大きくは違いが見出せませんが、里道の中間地点で、
変に迂回していた箇所が真っすぐになっていました。
もう一度、昭和35年版を思いっきり拡大して検討しました。

昭和35年5万分の1部分拡大

その結果わかったことは、青く着色した里道は、赤い矢印線で示した「尾根道」を
通らず、不自然にも沢筋を下って吉根の集落に向かっています。
今回、踏査してみて痛切に感じましたが、同じ山の中を歩くにも、沢筋よりも
尾根筋を歩いた方がはるかに楽でした。

また、「ほっぽ山」から見る遠望が大層素晴らしかったと言われるからには、
尾根道でないととつじつまが合いません。
従いまして、本来の里道は青く着色した地図表記の位置ではなく、私が赤く示した
尾根上の道であると推論するものです。
そしてその道は、もしかしたら、古い時代は下の地図で「左から2番目」で、比較的
新しい時代は「右から2番目」のルートだったかも知れません。
明治時代の県有地の境界杭を「右から2番目」のルートの、ゴルフ場との境界付近で
発見していますので、「右から2番目」ルート説がやや強いかも知れませんが・・・


google-住宅地図-山道-ルート-赤線
[ 2013/03/05 22:55 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

しだみ道 なごや道

先人の記述から、「しだみ道」は名鉄瀬戸線の「霞ヶ丘駅跡」横を通る道であることを
前回書きました。その「しだみ道」を名鉄の踏切から2~300mも北上すると、左から(南西から)
随分鋭角に合流してくるごく狭い道があります。
下の地図で大森アイリス弐番館の手前で合流する青い道です。

google霞ヶ丘-1


この青い道は明治時代の古地図にも載っている道です。
「しだみ道」に対して何か名前のある古道なのかわかりませんが、青い道をたどってゆくと、
大森の法輪寺さんに向かっています。もしかしたら、裏参道のような位置づけだったのかも
知れませんね。
下の地図は1948年の米軍航空写真です。緑色は瀬戸街道の旧道です。

米軍地図19480727-1


この青く塗った道を歩いてみました。下の写真が、その合流地点です。随分不自然な接続ですね。
自動車のすれ違いもままならない狭い道です。

赤青合流点


現在では「表道路」ができてしまい、完全に生活道路となっています。

赤青合流点0


名鉄瀬戸線に向かって坂道になっています。

赤青合流点1


現在の道は瀬戸線で突きあたり、線路と平行に向きを変えています。

赤青合流点2


でも線路の向う側に再び続く道が見えました。昔は瀬戸線の線路があっても、「道」として
往来があったのでしょう。

赤青合流点3

もしもこの道が、法輪寺さんへの参道であるならば、線路から北の霞ヶ丘、大森北あたりには
檀家さんが多くいらっしゃったことでしょう。
また「しだみ道」は大森から志段味に抜ける道ですが、志段味の人たちはこの道を「しだみ道」とは
言わないで「なごや道」と呼んでいました。
「なごや」を行き先と考えると、この青い道の方が多少とも近道になりますので、
もしかしたら「しだみ道」と「なごや道」は、その大部分は同じだったにしても、
実は微妙に発着が異なっていたのかも知れませんね。
[ 2012/08/07 00:19 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

しだみ道探検-1-

先日ご紹介した守山土木事務所さんの「守山土木だより」では、しだみ道のことを文字説明と、
古い絵図で説明されていたので、いまひとつピンとこなかったかも知れませんね。
ましてや今日では、守山土木だよりから更に15年が経過しておりますからなおさらです。

では今はどうなっているんだろうかと、探検に出かけました。

絵図は雰囲気は伝わりますが、現実との対比は困難なので、私の手持ちの古地図を用意しました。
明治24年ころのものです。わかりやすくするために、例によって赤い線を引いておきました。
大森側の起点は瀬戸街道で、少し北上して名鉄瀬戸線を横切っています。

明治24年測図水野村2万分の1-1

同じような縮尺でGoogle mapを切り出して、しだみ道を赤くしました。
区画整理されていますので、道は微妙にズレていますが、かなり雰囲気は残っていますね。

google霞ヶ丘


守山土木だよりには、次のように書かれています。

大森5丁目に入ったら少し注意。古本屋「共栄書店」さんを北へ曲がります。
ここからが、昔「しだみ道」と呼ばれていた道で、大森から志段味へ抜けるための道だったのです。


現在では、市バス「八剣」バス停を過ぎて、学習塾のある角が「しだみ道」の大森側の起点となっています。

20120729-101.jpg


静かな住宅街の中を進みますと、道はやがて踏切に出ます。名鉄瀬戸線です。
瀬戸線はいまだに瀬戸電の愛称で呼ばれるローカル鉄道です。かっては赤い車体でしたが、
最近ではこの新型車両ばかり目につきます。
電車と柵との間に草ぼうぼうの敷地が線路に沿って続いていますね。
これがかっての霞ヶ丘駅の名残りです。

20120729-102.jpg


ホームの西の端がこの踏切で、東の端はアパートの長さほどあります。
コンクリートの擁壁で線路よりも高く作ってあります。昔はホームには砂利でも敷いてあったのでしょうか?

20120729-103.jpg


踏切を通り過ぎてから振り返ってみました。
道はすでになだらかな勾配になっています。この踏切はとても狭いので、普通自動車の対面通行はできません。

20120729-104.jpg


道はさらに勾配をつけて続きます。30kmの速度制限の標識があります。
道のほとんどのところは狭く、自動車のすれ違いは困難です。

20120729-105.jpg


かたわらに農地というほどではありませんが、野菜畑がありました。
「大事な一本の米ナスです。取っていかないでください。」と手書きの看板。
おそらく過去にイヤな思いをされた所有者の心の叫びなのでしょう。

20120729-106.jpg


続きます
[ 2012/08/03 23:41 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

しだみ道(守山土木だより)

今回の「しだみ道」は、守山土木だよりNo.2(平成9年12月1日)よりご紹介します。

守山区を歩いてみませんか
守山区知る区ロードNo.2


今回は、大森と小幡を歩くコースです。
スタートは、名鉄瀬戸線の大森金城学院前駅としました。まず、瀬戸街道へ出て、東へ
進みます。ここの街路樹はヒトツパタゴ。というよりもナンジャモンジャと言ったほうが、
よくご存知かもしれませんね。この木は、愛知、岐阜のほかに対馬だけに自生する珍しい
木です。また、この変わった名前は、昔、明治神宮外苑にあった大木の名前がわからず、
ナンジャモンジャと呼ばれていた(「日本の樹木」山と渓谷社)という説もありますが、
瑞浪、土岐の辺りでは名の知れない大木をナンジャモンジャ別名アンニャモンニャと言っ
ていたという説もあります。歩きながらよく見ると、実の付いている木があります。
さて、大森5丁目に入ったら少し注意。古本屋「共栄書店」さんを北へ曲がります。こ
こからが、昔「しだみ道」と呼ばれていた道で、大森から志段味へ抜けるための道だった
のです。この道の瀬戸線脇には、昔「霞ヶ丘」という駅がありました少しわかりにくい
かもしれませんが、大正時代の瀬戸線沿線案内図を下に載せました。駅から道が志段味の
ほうへ続いているのがわかると思います。

しだみ道を小幡緑地の少し手前で左に折れますと、御膳洞の区画整理の中を抜けて、ヒ
ル池へ出ます。ここは、マメナシという珍しい木がたくさんあるところで、今はきれいに
整備されています。4月も後半になりますと、桜に似た白い花が満開となります。道路に
出て、北へ道を取ります。立正園を過ぎて、1本目を左に入ります。すると、途中で道が
なくなった?そうなんです。ここから少し、未整備の道を歩きます。まるで、山歩きのよ
うです。舗装道路へ出たら左へ、八竜の尾根筋になります。分岐を左に取り、吉定寺の前
を通り、翠松園の中を抜けます。途中にしゃれた家があったりします。突き当たりの階段
を下りて、小幡緑地の中へ。小幡綠地の中は自由に歩いていただいてもよいかと思います。
県道名古屋多治見線、通称竜泉寺街道へ出たら南下し、小幡緑地西園をめざします。本
当は緑地の中を通るとよいのですが、今は工事中なので外周を回り、牛牧の交差点からコ
ミュニティ道路をどんどん南下。この路線の街路樹はヒメユズリハです。突き当たったら
東へ曲がり、区役所の前からNHKの寮の南側道路に人ります。ここは、昨年度、小幡の
福祉モデル地区として整備されたところです。
あとは、小幡、喜多山の町を抜けて302号まで直進します。302号で瀬戸線を渡り、
瀬戸街道へ出て、大森駅まですぐです。

守山土木だより古地図

[ 2012/07/29 15:14 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)

しだみ道(街道への誘い)

川本文彦氏著、街道への誘い~ふるさと守山物語~は、当ブログにとっては宝の山であり、
ネタ帳そのものといった存在です。

そこから物語をひとつご紹介します、と言えば品が良いのですが、それは単なるパクリだろと
言われると、ちと答えに窮するところでもあります。

志段味への道・今昔


大森の東のはずれ、尾張旭市との市域境に、むかし瀬戸電の「霞ヶ丘駅」があり、
ここから、志段味に抜ける間道に「しだみ道」という道があった。
江戸時代の古図や大正9年の地図にも、そのように書かれているから間違いないはずである。
だが、当時本当にそんな道があったのか、と時々疑問に思うことがある。

それは今から50年ほど前のこと。
敗戦も間近に迫ったころ、守山もたびたび空襲に遭った。近所に住んでいたE君も、
疎開のためこの道が通る山奥に、掘っ立て小屋のような小さな一軒家を建て移り住んでいったので、
一度遊びに行ったことがある。
そのとき、この細い道は両側から身の丈ほどに伸びた熊笹が覆いかぶさり、
両手で掻き分け掻き分け、訪ねて行った。
人がほとんど通らない、また通れるような道ではなかったし、人里もなかった。
こんな道なき道を古図や地図に、わざわざ「しだみ道」と記してある。不思議に思われた。

しかし、父母が生きていた頃、父からは、こんな話を聞いたことがある。
たぶん、明治の末か大正の初めの頃のことであろう。
父が幼かった時、父親に連れられ、この「しだみ道」を通って志段味から大森へ来る途中では、
銀狐や狸に会うこともあった。また、親子連れの猪の姿を見かけることもあった。
特に夕方など、狐の鳴き声を聞くと淋しくなり、足早に駆け抜けていった。
道に沿って小川や沢がところどころあるため、いろいろな動物たちが水を求めて集まって
きたのだろうと言っていた。

大森に着いて、そこから名古屋へ行くには、瀬戸自動鉄道の蒸気道車に乗っていった。
ときどき坂道で立ち往生し、乗客が後ろから押している姿を見かけたと話していた。
母からは、大正の中ごろ、志段味の父のもとへ嫁ぐとき、今の尾張旭市の庄中から人力車に乗って、
この道を通ってきたし、また、その後、実家への初帰りのときは、姑につれられ着物の裾をまくり、
この道を歩いて帰ったと言っていた。

したがって、父母から聞いたこの道は、当時の人の往来も多かったと推察される。
私の記憶に残る同じ道とは思えず、道路に対するイメージが相当かけ離れているようである・・・・・。
その原因は、大正9年と昭和22年の地図を比較すると、はっきり分かる。
それは、大正末から昭和にかけて志段味から尾張旭の庄中を経て四軒家に至る新しいバイパスが
出来たことであり、昭和22年の地図にはこの道が描かれている。
新設された道へと人の流れが移り変わり、「しだみ道」を人が通らなくなったから・・・・・と
考えられる。

その後・・・・・戦後50年、今またこの辺りも大きく変化してきた。
辺鄙な山中と思われたこの付近も、家屋が建ち並び、細く曲がりくねった道の両側には
ビッシリと家が建っている。昔の山の中の寂しい一本道は完全に消失して、市街地の街路へと
変わってきた。明治・大正・昭和・平成と四代にわたり、これほど大きく変化をした道路も、
まず他にないであろう。

「しだみ道」沿いに廃駅になった古い「霞ヶ丘」の駅舎が唯一残っていたが、
これもつい最近取り壊された。


1997年5月31日 風媒社刊
[ 2012/07/25 20:32 ] 古道 | TB(0) | コメント(0)
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プロフィール

加藤

Author:加藤
守山区在住の歴史、自然、イベントファンです。
散策仲間を常時募集しています。
ご連絡は右側のメールフォームよりお願いします。
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