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休日ウォーキング 桜佐ヨゲ

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2016年2月11日 本日の休日日課ウォーキング

さらっと書くつもりでしたが、下津尾の渡しから始まって、その対岸の八ヶ村用水まで
けっこう時間を掛けて書いていたら、下津尾の渡しの次に立ち寄った桜佐のことが
すっかり後回しになってしまいましたので、このシリーズの締めくくりとして記録に
留めさせていただきます。

私が当日参考に使用した散策マップは「一宮友歩会」さんがかって作られたもので、
そこには「桜佐ヨケ」と書かれておりました。
「桜佐」は守山区とは庄内川をはさんだ対岸である春日井市桜佐町のことですが、
「ヨケ」とはいったい何なのか?少し調べてから出発すればよかったのですが、
えいやーで出かけたので「ヨケ」については予備知識ゼロでした。
桜佐の集落を通り抜ける旧道を歩きながら、「ヨケ」がわからなくて地元の女性に
マップを見ていただき「ヨケ」についてお尋ねしましたが、「歴史的なものなら、そこに
水神様が祀ってあるけど【よけ】なんて知らんねぇ・・・」とのことでした。

桜佐ヨゲ
▲ 地元の女性が指差した「歴史的なもの」水神様の石碑

帰宅後に調べたところ「ヨケ」ではなくて「ヨゲ」であることがわかりました。
庄内川の堤防が整備される前、洪水から集落を守るため、濁流の流路をふたたび本流へと
導いた堤防でした。
結果として目的の対象を写真に収めていたわけです。
よく調べてから行動しなければならない見本のような結末となりました。

この日の私のウォーキングはほどなく吉根橋の北側に到着し、道程の残り半分は
かって知ったる吉根を自宅へと帰りました。
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[ 2016/03/26 17:36 ] | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(4)

USA-M148-A-7-143(19460528).jpg
▲ 1946年5月28日、米軍による空中写真
国土地理院の地形図(今昔マップ)は、今回のような河川がらみの案件では、現況に対して
地形図が追いつかない、乖離した内容である可能性があります。
そこで戦後間もなくの、米軍による超精密な空中写真を利用して、更に解析を進めてみます。


CA-143堰堤
▲ 八ヶ村用水の取水口と中切の堰堤
昭和21年の米軍写真には中切の堰堤が、庄内川の川幅の半分ほどではありますが、
たしかに写っています。また、八ヶ村用水の取水口も流芯の深そうなところにあります。
ただしこの堰堤は現在の堰堤より下流になります。
ここでは便宜的に①、②と付しておきますが、今昔地図の1959-1960で初めて書かれていた
堰堤と異なることにご注意ください。
この堰堤と取水口の変遷は今回のテーマからは外れますので、またあらためて考察します。


CA-143渡し船
▲ 「下津尾の渡し」春日井側の乗船位置の考察
上の写真のおいて③は前記事から継続して使っている、現在「下津尾の渡し趾」の石碑がある
場所です。ただし説明の関係で、堤防道路の反対側に印しておりますが。
堤防道路から河川敷に降りる道は現在は川下に向かって付けられておりますが、
この昭和21年当時には、川上に向かって降りていたことがわかります。
また降り始めてすぐのところに渡船小屋のような建物が数棟見られます。
そして、赤い矢印を付したところですが、何やら、船と見て見られないこともないような
白いものが写っています。たんなる川砂の堆積かも知れませんが、もしかしたら
渡し舟かも知れません。
[ 2016/02/16 22:33 ] | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(3)

前記事

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(2)

前記事で滝本庄吾氏は、守山郷土史研究会会報「もりやま」第9号(1990年)
東春日井郡川村の郷(上)-大正時代の年中行事・生活点描-の中で
次のように述べておられます。
-----------------------------------------------------------------
中切村との村境近くに渡し場を持ち(堰堤より少し上流)、庄内川を渡ったあと、
川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた
-----------------------------------------------------------------
これをヒントに考察してみましょう。

今昔マップ下津尾の渡しマーカー
▲ 今昔マップで見た2014年の空中写真
最初に今昔マップで現在の状況を上空から確認します。
春日井市中切町の堰堤両端に1および2のマーキングをします。
ついで堤防道路から「下津尾の渡し趾」石碑で河川敷に降りるポイントにも3のマーカーを
落としました。今後今昔マップで時代を遡って堰堤が消えても、代わりに龍泉寺道の古道が
出現しても、このマーカーが変わらぬ位置を教えてくれます。


今昔マップ下津尾の渡し1959-1960
▲ 今昔マップで表示した1959-1960の地形図
この地図が堰堤の描かれている最古の地形図で、マーカーの位置にズレがないことを
念のため確認しています、逆に堤防道路から河川敷への降り口「3」には道路が描かれていません。


今昔マップ下津尾の渡し1888-98
▲ 今昔マップで表示した1888-98年の地形図
堰堤「1」はどうやら河岸段丘の南端に取り付けられたように見えます。
また、龍泉寺さんへのルートが複数描かれてもいます。


明治時代の地形図
▲ 1888-98年の地形図の原図を元に考察
今昔地図では少し見づらかったので、原図(モノクロ)を元に気が付いたことを書きます。

庄内川から龍泉寺さんへの登坂ルート
ここでふたたび冒頭の滝本庄吾氏の言を引用します。
庄内川を渡ったあと、 川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた
上に示した明治時代の地形図に描かれている、庄内川から龍泉寺さんへのルートは
二つあって、ともに「4」とマーキングしたくぼみより出発しています。
北よりのルートは、龍泉寺さんの本堂にほぼ真っ直ぐな、極めて急峻なルートで、
いまひとつ南よりのルートは現在の御嶽さんのあたりに繋がる折れ曲がったものです。
滝本さんの引用文はこの後者、あるいはもう少し南側のルートを指し示している
ような気がします。
現実的に高低差50m以上の急峻な斜面を、ほぼストレートに上り下りしたとは
いくら往時の人々が健脚であっても考えにくく、やはり南側のルートなのかと思います。
いずれにせよ、「4」とマーキングした場所が気になります。
また「5」とマーキングした場所は、当時、河川敷にあった船頭さん(林さん)のお宅かと
思います。


今昔マップ下津尾の渡しマーカー最終
▲ もう一度、現代の写真に戻ると・・・
最初に使った現代の空中写真に「4」登坂口と「5」林さん宅を透過表示させてみました。
「4」登坂口は龍泉寺霊園の西端、「5」林さん宅は河川敷農園の中になっています。
渡船ルートは「3」→「4」の最短コースだったのでしょうか?
庄内川の流路は大規模な増水、氾濫の繰り返しの歴史の中で、幾多も変貌しています。
したがって都度、船頭さんが最適なコースをとっていたと考えられます。

次回の記事に続きます
[ 2016/02/15 15:30 ] | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(2)

20160211下津尾マップ(2)
▲ 私のウォーキングデータ
上の地図において、赤いラインが私の実際に歩いたコースで、スマートフォンiPhoneのアプリ
「Geographica」でデータ記録したものです。堰堤を離れて、しばらく堤防道路を歩いた後、
リュウゼツランの傍らに建つ「下津尾の渡し趾」で河川敷に降りました。


20160211(8).jpg
▲ 堤防道路から河川敷への降り口
河川敷への降り口に立って庄内川を見渡すと、往時はどこに船着場があったのか、そんな
ロマン、探究心が自然と沸き起こります。
ここで下津尾の渡しについて言及した資料より、その情景を転記してみましょう。

郷土誌かすがい 第20号(昭和58年9月15日発行 第20号 ホームページ版)
郷土探訪-春日井をとおる街道7 庄内川の渡し-下津尾の渡し(桜井芳昭氏 春日井郷土史研究会会員)
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下津尾にあり、竜泉寺への近道であった。八田や下原から上条・関田を経て下津尾へ至る道を
竜泉寺街道と呼んでいた。竜泉寺古記録には、「毎年五月十八日に熱田梵天と観音梵天の二本と
神馬二匹を下津村から出して竜泉寺まで引き上げる。また、正月七日には観音堂前で下津尾村の
社人が神楽祝詞をあげ五穀祭りを行う。」とある。このことから下津尾と竜泉寺は古くから関係が
深かったことがわかる。
ここの渡しの川舟は舟腹の横板の枚数で二枚腹とか三腹と呼ばれ、ここは木曽川から払い下げられた
二枚腹が多かったという。昭和13年頃までは竜泉寺の節分や初観音の時は特別利用客が多いので、
前日に部落総出で仮橋を架け、当日は橋の通行料として片道2銭(往復3銭)を取って渡した。
ここの渡しは市内で最も最近(昭和40年)まで続き、渡舟場跡には当時をしのぶ「下津尾渡し跡」の
標柱が建てられている。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第2号(昭和58年)
庄内川の「渡し」をたずねて 久野冴子さん
下津尾の渡し
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庄内川の右岸、ちょうど龍泉寺の対岸の堤防のきわに水神塔と並んで「下津尾の渡し跡」と刻まれた碑がある。
二年程前、自転車でこの付近を通ったとき、偶然この碑が目にとまり、ああここに渡し場があ
ったのかとなぜかとっくに忘れたものを呼び覚まされた思いがしたものだ。
今度再び当地を訪れ、堤防下に旧家があったので「渡し」について何かわかるかも知れないと思い、
訪問したところ、ご老人が応対に出てこられた。何と幸運なことにこの方が下津尾で最後の渡し守をして
いらっしゃった林泰一さんであった。以下林泰一さんの談話である。「下津尾の渡し船は笹舟と云う川舟で、
木曽川から払い下げてもらったものである。舟腹の板の数で二枚腹とか三枚腹とか云われたが、
大体二枚腹の舟が多かった。対岸の龍泉寺への往来に利用された。畠仕事をしているとき(乗る時は)
お願いしますと声をかけられ、龍泉寺の方からは大声でオーイと呼ばれると舟を出しに渡し場にかけつけ
たものである。
渡しは古くからあったが、大正の初めから昭和の5年頃まで父(寓三郎)が渡し守をつとめ、
舟賃は片道二銭、往復三銭であった。父の死後自分が引き継いだ。
平常乗客は一日4,5人ぐらいであったが、龍泉寺の節分会、初観音(旧1月18日)、毎月7日の七福神、
21日の弘法さんの日は大そうにぎわった。節分には夜半からお詣りする人が多いため、前日に
部落総出で仮橋をかけ、当日は部落の当番が、橋の通行料(舟賃と同じ)をとって渡した。
あくる日また部落総出で橋をこわしてしまう。
昭和13年頃松川橋ができてから、仮橋を渡る人も少なくなり、また勤め人も多くなったので
架橋は行われなくなった。それ以後は節分と初観音の時に吉根から船を二艘借りてきて渡しを行った。
その時、渡し守はくじ引できめたものである。
戦後、龍泉寺へお詣りする人が減るとともに、舟を利用する人も少なくなったが、
それでも昭和40年頃までつづけていた。このころの舟賃は片道20円往復30円であったと思う。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第9号(1990年)
東春日井郡川村の郷(上)-大正時代の年中行事・生活点描- 滝本庄吾氏
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龍泉寺の真裏には、もう一つ渡舟場があった。
これを「下津尾の渡し」という。これは江戸時代に下津尾村(現在春日井市下津町)と称して
いた村の渡しであった。この村は龍泉寺の真裏にあって庄内川を挟んだ対岸に位置し、
下流の隣村、中切村との村境近くに渡し場を持ち(堰堤より少し上流)、庄内川を渡ったあと、
川村山と龍泉寺山の境を上って龍泉寺にお参りしていた
。江戸時代の『尾張年中行
事絵抄』にも、正月六日夜「龍泉寺、福拾祭。これは吉根村と下津尾村の人々、本堂に集会。
下津尾の社人来りて、宝前に於て祝調、祭文。」とみえる。
このように昔から下津尾の人々は、龍泉寺との深い関わりを持ち、龍泉寺で行なわれた
各種行事のたびに、自分村の舟を利用していたのである。そのずっと後の昭和三十年代となっても、
暖かい時期には八ケ村用水の堰堤の上を水につかって歩いて渡り、節分の日などの水が
冷たい時期には、舟を出して渡っていた。昭和四十年代になると、自家用自動車が普及し、
下津尾の渡しは姿を消していた。こうしたことから、守山区との関わりを持った庄内川の舟渡しの、
最後となったのは下津尾の渡しであったといえよう。
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守山郷土史研究会会報「もりやま」第12号(1993年)
吉根ムラ散歩の記(11)-川向うの村々-、徳田百合子さん
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下津にも渡しがあった。野田や桜佐の場合とちがって、わりに最近まで竜泉寺への参詣人に利用された。
祭日には板橋も架けられたが、昭和13年頃松川橋ができてからは中止となり、節分と初観音の日に
吉根から船を借りてきて渡しを行うていどであった。しかし昭和40年頃にはそれも絶えたという。
堤防道路すぐ横に「下津尾の渡し跡」と刻まれた石碑がたっているが、そこから下りてゆくと広い河川敷一
面に野菜や花瓶として耕作されていて、川の流れている所までは大分距離がある。
この河川敷の中にもかっては家があったという話を竜泉寺の林一政氏からきいた。
林氏の五代前迄はその中州に住んでみえたのだが、明治の初め頃本家は下津の方へ移転し、
分家が竜泉寺の門前へ引越してきたとのこと。今では交際が絶えたが、その本家の林さんの家は、
現在では伊藤という方が後を継いでみえるそうで、詳しいことは泰岳寺できいた方がよくわかるのでは
ないかとおっしゃった。
明治の地図をよく見ると中州に二戸の家があって、そこから下津への道が点線で示されている。
更にもう一つ古い文化10年の川絵図のことを思い出す。そこにも川縁に二戸の農家が描かれていた。
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続く
[ 2016/02/14 23:00 ] | TB(0) | コメント(0)

休日ウォーキング 下津尾の渡し跡(1)

一宮友歩会45回マップ
▲ 一宮友歩会のウォーキングマップ
私は守山区に住んでいながら、お隣の春日井市側の見どころはあまり知りません。
そこで事前に上図のマップを用意しました。
このマップには私の進行方向の近い順に「下津尾の渡し跡」が書かれています。
これは守山の郷土史にもよく出てくる、龍泉寺さんと春日井を結ぶ渡し場です。


20160211下津尾マップ
▲ 上図で矢印のあたりになりますか?
詳しくはこのブログの続編で考察しますが、龍泉寺さんにもっとも接近するのは、
龍泉寺霊園の東の端あたりかと思います。そして渡し舟が庄内川を最短距離で、
しかも河川に対して直角で横切るとすれば、このあたりかと思います。


20160211(5).jpg
▲ 河口から「26K8」の表示ポストのあたり
河川敷にゴルフの練習場のような芝生広場が見られます。
この日はラジコン飛行機の愛好家たちが集まっていました。


20160211(6).jpg
▲ やがて芝生広場に降りる道が現れます
降り口の目印は路肩に生えているリュウゼツランです。 


20160211(7).jpg
▲ リュウゼツランに隠れるように石碑が建っています
碑文には「庄内川 下津尾の渡し趾 安藤直太朗書」とあります。
安藤直太朗氏は「郷土史かすがい」などに椙山女学園大学名誉教授と見えます。

翌日のブログに続きます
[ 2016/02/13 23:11 ] | TB(0) | コメント(0)

松洞川の暗渠区間の地上部を踏査

松洞川地図
史跡散策会「竜泉寺界隈めぐり」
守山生涯学習センターでは、5月18日(土)10:00-12:00に、「ええとこ守山案内人」の主催で
史跡散策会を催します。私はこの会に参加しておりまして、5月18日もお手伝いで同行させて
いただく予定です。

本日はその予定コースのごく一部を実際に歩いてみることにしました。
松洞川は旧 大字吉根字松ヶ洞にある大池とアメ池を水源とする小川です。
かって両池は流域の水田や耕地の灌漑用ため池でしたが、今ではその利用もわずかとなり、
松洞川も雨季の池の排水目的として存在するのみかと推察します。

暗渠に落ちる前までの区間は、場所によっては春の小川の様相をなし、並行する散策路は
新緑の薫りやさしいオアシスです。この季節は希少種マメナシの花と新緑がひときわ
人々を癒してくれます。



松洞川暗渠入口 松洞川暗渠入口2
松洞川の暗渠入口
松洞川はスポーツセンターの角まで来ると、向きを西寄りに変えて暗渠に落ちます。
本日は昨夜の雨で増水していましたので、川の水が音を立てて吸い込まれていました。




マンホール1 マンホール2
暗渠のマンホール
暗渠となった松洞川がどこを通っているのかは、マンホールを追いかければわかります。
最初のマンホールは緑地公園内の道路にありました。位置的には歩道の下を通って、
表道路(龍泉寺街道)へと向かっています。
龍泉寺街道を横切り松坂町側に行きます。今度は道路の真ん中を松洞川の暗渠が通り、
各戸の生活排水用の汚水マンホールが道路すみにありました。




マンホール3 マンホール4
マンホールの違い
左側は松洞川の暗渠のマンホールで、右側が汚水マンホールです。
暗渠の方は深くかつ大型なので、「ふた」のまわりがコンクリートになっています。




マンホール5 マンホール6
名二環越えはいかに
目の前には名二環がせまってきました。
どうやって名二環の向うにある白沢川に落ちるのか、それが疑問でした。
もしかしたら名二環に突き当たってから側道を下って、人や車のように道路下をくぐるのか、
それともそもそも名二環の下を最短ルートで行くのか?
とりあえず、側道を下るルートにはマンホールはありませんでした。
名二環の下を通り抜け、向う側の側道を少し登ったところに、地下道の自然排気口がありました。
と、その脇に落葉に埋もれたマンホールがチラっと見えました。形からすると暗渠のものです。
なるほど、松洞川の暗渠は名二環の下を直線的に通り抜けていたようです。




排水口1 排水口2
排水口がありました!
最後は民家の敷地の下を通り抜けて、白沢川に落ちていました。
基本的には溜池のオーバーフローですから、水質はとてもきれいだと思います。
白沢川の本流の水質とまったく同程度でしょう。

暗渠化されたのがいつのことなのかまでは調べておりません。
手持ちの土地宝典昭和44年版には、流域は「水路」としてくねくねと描かれています。
土地区画整理、東名阪/環状2号線の工事の過程で暗渠化され、道路と交差したものかと
考えます。

散策会の当日、この道路は次の目的地へ行くための順路として歩くのですが、
ただ歩いてしまうだけだともったいない歴史を感じる踏査となりました。
[ 2013/04/21 21:48 ] | TB(0) | コメント(0)

庄内川の川遊び

守山郷土史研究会会誌「もりやま」第5号より

庄内川を挟んで吉根の北向かえに野田、西向かえに上条がある。
俺達子供は夏中殆ど毎日此の庄内川で遊んだ。魚を捕ったり泳いだり・・・・。
野田の子供も同じだ。だから此の川で吉根の子供とあちらの子供が合致あつた。
すると直ぐ石合戦が始まる。

川遊び20120826-1

いつの時代でも子供の夏休みは水遊びだ。
丸坊主で、海パンにベルトがついていたのが、自由な髪形になり、Tシャツを着るようにもなった。

川遊び20120826-2

魚道で遊んでいても、それは魚を捕えるためではなく、魚道をすべり台のようにして遊ぶ目的。
魚がまるっきりいない訳ではなかろうが、下手に捕まえても、帰宅後にバレて叱られるか。

川遊び20120826-3

むかしはプールのない学校があった。
そういう学校の子供たちは、近くの川で遊んだものだ。
しかし川に農薬やら生活排水やらが流れ込むようになって、異臭が漂って足を入れるのもはばかられた。
それと交差するように学校にプールができるようになり、子供たちの川遊びも見られなくなった。

川遊び20120826-4

訳のわからない変なオヤジが写真を撮っていたので、子供たちの帰宅を急がせてしまったかも
知れない。存分に遊べただろうか?
[ 2012/08/27 17:48 ] | TB(0) | コメント(0)

至来川(2)

至来川2-1

龍泉寺街道「吉根階子田」交差点を背にして、至来川が庄内川へと下る方向です。
川と道路はやがて庄内川の堤防で突きあたりとなります。

至来川2-2

突きあたりの堤防の上に山小屋風の建物があります。

至来川2-3

至来川はこの建物の下を抜け、庄内川へと落ちていました。

至来川2-4

この建物には「至来川排水ひ管」と名称が埋め込まれていました。
「ひ」とは樋のことで、水路が河川に合流するところにあるゲートのことです。

至来川2-6

最終的に庄内川に合流するところは、写真のように多少の高低差が付けられています。
写真前方は龍泉寺の山です。
[ 2012/06/12 23:09 ] | TB(0) | コメント(0)

至来川(1)

龍泉寺街道「吉根階子田」の交差点の下をくぐり庄内川にそそぐミニ河川が至来川(とうらいがわ)です。
「至来」とは下の航空写真で、庄内川の堤防よりも河川側にある小字のようです。
江戸時代には至来川のあたりに渡船が係留されていたそうですから、向う岸(春日井)からの人々が
「至り来る」ところだったのかも知れません。

至来川1

↑ 今回歩いたルートを地図上で赤ラインにしました。

至来川7

↑ 「吉根階子田」の交差点で至来川の改良工事をしています。
実は平成23年9月20日の庄内川の氾濫のときに、この至来川からも水があふれ、
県道が川のようになりました。

至来川8

↑ コンクリートで護岸を固めて、頑丈に改良されています。

至来川9

↑ 河川の改良とともに古い家があった(?)ところもキレイに整地されました。
簡易な橋は農作をされている区画へのルートとして確保されています。

至来川11

↑ 川沿いに歩いて行くと山側には畑が続いていました。

至来川13

↑ 山道には四輪自動車の「わだち」が続いていましたが、しばらく歩いたここの場所に駐車スペースが
あって、ここから先は道が狭くなりました。

至来川14

↑ 昼間でも薄暗い山道のところどころに木漏れ日が差し込み、山登りやハイキングにはよさそうな雰囲気です。

至来川15

↑ 護岸コンクリートが入っているのはここまでで、ここからは山道なのか沢なのかわからない道が続きます。

至来川16

↑ 行く手に竹がおおいかぶさり、軽装では危ないので源流探しは冬までお預けです。
写真左手にコンクリートの板が置いてあり、山の斜面が階段状に削られていました。
上には農家のハウスがあるのかな?ちらっと見えましたが、こんな山の中に?
[ 2012/06/10 17:50 ] | TB(0) | コメント(0)
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プロフィール

加藤

Author:加藤
守山区在住の歴史、自然、イベントファンです。
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