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大名古屋七七福神まとめ

大名古屋七七福神スタンプ展 表紙
【大名古屋七七福神 集印帖】

大名古屋七七福神の集印帖をもとに戦前の名古屋における七福神巡りの
一端をひもといてきました。ここで「まとめ」としてシリーズを締めくくりたいと思います。



大名古屋七七福神スタンプ展主催の印
【名古屋趣味のスタンプ会】

この集印帖(スタンプ帳)には書籍物にあるような発行年月日や発行者の名称、印は
まったくありません。もしかしたら帳面自体は普通の市販の汎用品を流用していたのかも
しれません。あるいはこのスタンプ帳は公式のものなのか、個人が購入して押し歩いた
ものなのかも定かではありません。
ともあれ、主催者はこのスタンプから「名古屋趣味のスタンプ会」とみてよろしいかと思います。

七七福神なのですから、全部まわると49のスタンプが押されていることになりますが、
数えてみると確かに49個のスタンプがありますが、次のような事情により49か所には
なっていませんでした。

東郊七福神の福禄寿の位置には弁財天が押されていてマイナス1枚。
宝生七福神の寿老人の位置には熱田七福神の宝船が押されてマイナス1枚。
蓬莱七福神の寿老人の位置には名古屋趣味のスタンプ会が押されてマイナス1枚
合計3枚が欠印となっています。

逆に、熱田七福神は宝船も押されていて番外が1枚プラスになっています。



七七福神連合会納経
【七七福神連合会納経】

欠印の状態にもかかわらず、「○○寺のスタンプが無い」と判断できたのは、
実は上掲画像の別の資料があったからです。
タイトルを「七七福神連合会納経」という和とじのもので、各寺院のご住職によって
あらかじめコース名、七福神名、所在地名、山号、寺院名などが1ページに
1寺院ずつ揮毫されたものです。
これを参照することで、スタンプの欠印寺院名を補完することが可能となりました。

またこの七七福神連合会納経は書籍としての体裁がとられていて、そこには
昭和10年発行、発行者は八角堂法蔵寺七七福神連合会常務・大澤眞應師のお名前、
印刷所および頒布所・東洋巌新社、後援・新愛知新聞社と書かれています。

愛知学院大学教養部紀要 61巻2号に収録の「名古屋の寺院に関する木版資料に
ついて(12)
」には次のように書かれています。

『さらに翌年3月(註:昭和10年3月)には、印刷所の東洋巌新社(中区矢場町)から
納経帳の『大名古屋八十八ケ所御納経』が発行された。この納経帳は札所寺院の住職に
よって番号、本尊、所在地、山号、寺号が揮毫されており、番外に大名古屋三大師の
寺院も加わっている。
 一方、納経帳とともに札所でスタンプを押印するスタンプ帳も発行されていた。
ただし、その発行年月日は明らかでない。「大名古屋八十八ケ所遍路スタンプ」と
題する折本帳となっており、札所の遍路スタンプがカラフルなカラーで押印されている
(後略)』

従いまして、納経帳は「大名古屋八十八ケ所納経帳」が先行販売され、その半年後くらいに
「大名古屋七七福神連合会納経帳」が発行されただろうことがわかります。
昭和9年から10年頃の新愛知新聞を丹念に読めば、広告・宣伝も含めてもっと
わかりそうですが、それはまたの機会にいたします。

[ 2020/11/10 12:00 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(2)

蓬莱七福神

蓬莱七福神スタンプ

【大名古屋七七福神 蓬莱七福神】

大名古屋七七福神巡りの最後は、わが町守山区の蓬莱七福神です。
蓬莱七福神のスタンプの特徴は、上が尖った栗の実のような形の中に、
七福神ゆかりの品物がモチーフであしらわれています。

七七福神の他のスタンプには無かった大きな特徴は、蓬莱七福神の名称が
角印で入っているところです。

長命寺さんと龍泉寺さんのスタンプが押されていなかったのはなんとも
残念なことです。
[ 2020/11/09 12:00 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神(8)

大名古屋七七福神スタンプ展 寿老人

【大名古屋七七福神 寿老人】

このスタンプ帖の最終ページは寿老人です。
このページもよく見るとスタンプの押し間違いがあるようです。本来なら見開きページの
左端は蓬莱七福神のスタンプなのですが、なぜかそこには主催者印のようなスタンプが
押されています。

それでは順番に見てゆきましょう。

・開運七福神 八角堂法蔵寺 中区水主町→現、中村区名駅南二丁目3番18号
・東郊七福神 太平寺 中区広路町川名→現、昭和区川名本町4丁目24−7
・宝生七福神 スタンプなし
・熱田七福神 実相院 中道→現、熱田区伝馬1丁目4−16、ただし宝船
・呼続七福神 龍泉寺 南区瑞穂町井戸田→現、瑞穂区井戸田町4丁目90番
・金城七福神 成福寺 下飯田町→現、北区 瑠璃光町1丁目8
・蓬莱七福神 スタンプなし

スタンプが無いのは蓬莱七福神だけかと思っていたら、宝生七福神も押印されて
いませんでした。さらに熱田七福神は寿老人のスタンプが無い代わりに番外
別格宝船のスタンプになっています。
まあ、いろいろとあったのでしょうね。
[ 2020/10/29 20:42 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神(7)

大名古屋七七福神スタンプ展 布袋和尚

【大名古屋七七福神 布袋天】

この大名古屋七七福神シリーズの記事を立ち上げるきっかけとなったのは、
蓬莱七福神の布袋尊天・東寺別院の記事からでした。
インターネットで検索する範囲内では大名古屋七七福神の情報が得られな
かったので、私の手持ちの資料でご紹介しようと思い立ちました。

・開運七福神 福泉寺 西区桶屋町→現、中区錦2丁目9
・東郊七福神 善昌寺 中区広路町石仏→現、昭和区石仏町1-80-2
・宝生七福神 長円寺 中村町→現、中村区中村町加藤屋敷3
・熱田七福神 福寿院 田中町→現、熱田区白鳥3丁目6−8
・呼続七福神 成道寺 南区呼続町→現、南区鳥栖2丁目15−22
・金城七福神 六通寺 東大曽根町→現、北区大曽根1丁目30−26
・蓬莱七福神 東寺名古屋別院→現、所在なし

スタンプ帖の真ん中の赤い布袋様は、呼続七福神の芳樹山成道寺さまなのですが、
そのようにはまったく読めなくて苦労しました。山号の「芳」は大丈夫でしたが
二文字目の「樹」に相当する文字は公文書館の学芸員さんに助けていただきました。
寺名の「成」「道」もてんで歯が立ちませんでした。
学芸員さん、ありがとうございました。
[ 2020/10/28 19:50 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神(6)

大名古屋七七福神スタンプ展 弁財天

【大名古屋七七福神 弁財天】

七福神巡りも後半に入りました。
本日は弁財天さまです。スタンプを見ると、お持物である琵琶が3か所と最も多く、
ついで琵琶を弾かれているいるお姿が2か所と、例の小判型のスタンプもたぶん
同じかも知れません。にこやかなお顔は熱田七福神に共通のスタンプなのだと
わかってきました。

それでは、七七福神を見てゆきましょう。

・開運七福神 七寺 名古屋市門前町→現、中区大須2丁目28
・東郊七福神 不動院 東区千種町中道→現、不明
・宝生七福神 龍潭寺 野田町→現、中川区野田3丁目187
・熱田七福神 弥ろく院 幡屋町菖蒲池→現、熱田区旗屋2丁目25−13 弥勒院
・呼続七福神 白毫寺 南区呼続町→現、南区岩戸町7−19
・金城七福神 西来寺 西区田幡町→現、北区金城3丁目9-33
・蓬莱七福神 観音寺 松河戸→現、春日井市松河戸町824 東風記念館のところ

東郊七福神の不動院さまはわかりませんでした。
東区千種町中道は現在の千種三丁目にすっぽりと入るそうで、そこに現存する
寺院は吹上寺さまと永昌院さまなのですが、決め手に欠きました。

蓬莱七福神の観音寺さまは、松河戸なので瀬戸電の沿線事業と考えると
現代の感覚だと随分距離がありますね。むしろ、勝川からのほうが近いような
気もしますが。
[ 2020/10/27 21:23 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神(5)

大名古屋七七福神スタンプ展 福禄寿

【大名古屋七七福神 福禄寿】

スタンプ帖の次のページに進みます。
今回は福禄寿さまです。
何回かにわたって眺めていると、七福神巡りのコースによって、スタンプの統一性が
見えてきました。とくに開運七福神コースのスタンプは縦長小判型は見事に統一
されていますね。

それでは福禄寿に相当するお寺をいつものように見てゆきましょう。

・開運七福神 高顕寺 中区下日置町→現、中区橘1-3-23
・東郊七福神 弁財天様のスタンプが押してありますが正しくは
       浄元寺 中区御器所町→現、昭和区村雲町14−17
・宝生七福神 観音堂 東宿→現、中村区東宿町2丁目 観音禅寺
・熱田七福神 蓮花院 大瀬子町中瀬子→現、瑞穂区前田町1-20
・呼続七福神 法泉寺 南区呼続町→現、南区呼続2丁目1−21
・金城七福神 乗円寺 萩野下中切→現、北区中切町2丁目61
・蓬莱七福神 法輪寺 大森→現、守山区大森3丁目

今回は東郊七福神で思いもよらないことに弁天様のスタンプが押してありました。
もしかしたらと思って翌日予定の弁天様のページをめくりましたが、
まったく同じスタンプでした。東郊七福神の福禄寿スタンプは幻となりました。
[ 2020/10/26 21:20 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神(4)

大名古屋七七福神スタンプ展 毘沙門天

【大名古屋七七福神 毘沙門天】

スタンプ帖の次のページは毘沙門天さまになっています。
毘沙門天さまは古代インドの仏神で、別名多聞天さまのほうが通りがよいかも知れません。
私たちがよく目にするお姿は片手に仏塔を持っていらっしゃる形で、この仏塔の中には
高僧が何人かいらっしゃって、毘沙門天さまに意見を具申されるとか聞きました。
ゆえに独断専行ではなく、多くの意見を聞く天の神さまで多聞天さまなのだとか。

今回のページから読み取れる毘沙門天さまに対比されるお寺さんは次の通りです。

・開運七福神 法応寺 中区白川町→現、千種区青柳町6丁目25
・東郊七福神 松林寺 東区田代町→現、千種区丸山町1丁目38番地 
・宝生七福神 弘法堂 横井山→現、中村区横井山緑地公園山頂
・熱田七福神 喜見寺 曽福女→現、熱田区神宮2丁目7−2
・呼続七福神 笠覆寺 南区笠寺町→現、南区笠寺町上新町83(笠寺観音)
・金城七福神 新福寺 庄内町→現、西区名塚町2丁目60番地
・蓬莱七福神 宝勝寺 尾張国守山→現、守山区市場4

他のお寺さんと同様に戦前と現在とでは、お寺さんの所在地が変わることが
ままあるようです。戦災、伊勢湾台風、区画整理などでしょうか。

毘沙門天さまのスタンプはシンボルである宝塔をあしらったものと、
お姿を描いたものがともに3件で、残り1件がお顔となっています。
また開運七福神コースはほかと同様に縦長の小判型となっています。
多く、
[ 2020/10/25 12:05 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神(3)

大名古屋七七福神スタンプ展 大黒天
【大名古屋七七福神 大黒天】

序列の二位は大黒天さまだそうです。
昔むかし歌った「大黒様」は調べてみると、明治38年の文部省唱歌なのですね。

大黒様のページにも7か所のスタンプが押されています。
右上の開運七福神は前回ご紹介の恵比寿様と同じで小判型をしています。
それでは七七福神を詳細に読み取ってゆきましょう。

・開運七福神 本遠寺別院 東区桜町3丁目→現、中区錦3丁目(ただし、所在なし)
・東郊七福神 光正院 東区千種町元古井→現、千種区今池1丁目5−26
・宝生七福神 観音堂 中区牧野町→現、中村区太閤5丁目2−10
・熱田七福神 大薬師 熱田区高蔵町→現、熱田区高蔵町
・呼続七福神 清水閣 南区呼続町→現、南区呼続4丁目13−18 長楽寺
・金城七福神 大黒殿 西志賀町→現、北区元志賀町2丁目127 霊源寺
・蓬莱七福神 長慶寺 小幡→現、守山区小幡中2-24-45

スタンプの意匠は、俵の上に乗った代表的な二つ、大黒様のシンボル的な
お持物である打ち出の小づちが4、ニコヤカなお顔が一つとなっています。

今回の大黒様に相当するお寺は、すでにその場に無かったり、スタンプの寺名と
異なっていましたので、少し不正確なところがあるかも知れません。
[ 2020/10/22 21:01 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神(2)

大名古屋七七福神スタンプ展 恵比寿
【大名古屋七七福神 恵比寿】

大名古屋七七福神スタンプ展のスタンプ帖の表紙をめくると、最初の七福神様は恵比寿さまから
始まっています。七福神の神々の並び順は諸説があるようですが、現代版の七福神でも恵比寿天を
序列一位にしているケースが多くあります。

それぞれの七福神巡りで恵比寿天に対比させているのは次のお寺です。

・開運七福神 蔵福寺(ぞうふくじ)南区熱田市場町→現、熱田区神宮2丁目11−12
・東郊七福神 龍興寺(りゅうこうじ)中区御器所町→現、昭和区御器所3丁目1−29
・宝生七福神 光明寺(こうみょうじ)中村区岩塚町→現、中村区岩塚町郷中90
・熱田七福神 等覚院(とうかくいん)熱田区大瀬子町→現、熱田区大瀬子町820
・呼続七福神 東宝寺(とうほうじ)南区西桜町→現、南区西桜町98
・金城七福神 松音寺(しょうおんじ)萩野村→現、北区光音寺町2丁目93
・蓬莱七福神 良福寺(りょうふくじ)印場→現、尾張旭市印場元町1丁目15−19

スタンプのデザインを見比べますと、恵比寿さまはタイを釣っている座像が多いことから、
スタンプにも鯛をあしらったものが3点と一番多く、次いでニコヤカなお顔が2点、
座像に近いものが2点となっています。
[ 2020/10/21 22:34 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

大名古屋七七福神(1)

大名古屋七七福神スタンプ展 表紙

大名古屋七七福神スタンプ展 寿老人


【大名古屋七七福神スタンプ展スタンプ帖】

関連記事 [ 蓬莱七福神 ] を含む記事

前記事である「東寺別院」にて蓬莱七福神について触れましたが、昭和初期から戦前までの間
交通網の発達と、その沿線への集客増加を狙って、手軽な庶民信仰的な娯楽である七福神巡りが
各地で流行したようです。

今回は瀬戸電の沿線での蓬莱七福神巡りから少し視野を拡げ、当時の名古屋市における七福神巡りを
眺めてみたいと思います。

上の画像は当時の「大名古屋七七福神」のスタンプ帖です。
どのページ、つまりどの七福神からご紹介すべきなのか迷いましたが、今回は表紙と最終ページを
掲載いたします。

まず名称から。
単に七福神ではなくて「七七福神スタンプ帖」であることにご注目ください。
つまり七福神巡りのコースが当時の名古屋に七つあったことに由来します。
瀬戸電沿線の蓬莱七福神巡りはその一つだったのですね。

スタンプ帖全体から読み取れる七福神巡りの七コースは次の通りです。
上の画像で右から、
・開運七福神
・東郊七福神
・宝生七福神
・熱田七福神
・呼続七福神
・金城七福神
・蓬莱七福神
このページだけでは読み取れませんので、他のページを併せて判読しました。
またこのページに限っては蓬莱七福神のスタンプがないのも引っ掛かります。


大名古屋七七福神スタンプ展主催の印

【主催のスタンプ】
今のところこのスタンプ帖の出所、由来はわかりませんが、大名古屋七七福神スタンプ展
という名称の入ったスタンプが最終ページの寿老人に押印されていることから、たとえば
松坂屋あたりでそういう催事があり、そこでの即売品として頒布されていた可能性もあると
思います。

主催者のスタンプには反時計回りで文字が入っていて、前述の「大名古屋七七福神
スタンプ展」に加えて、少し小さな文字で「名古屋趣味のスタンプ会」と彫られているのが
読み取れます。
次回からはほかのページを順次眺めてみたいと思います。

文中の文字はすべて新字体に置き換えてあります。

[ 2020/10/18 10:31 ] 七福神巡り | TB(0) | コメント(0)

東寺別院(3)

東寺名古屋別院絵葉書愛知県図書館蔵
【東寺別院の絵葉書】
正確には京都東寺の名古屋別院という位置づけです。
もちろん当時はまだ東春日井郡なのですが、小幡別院とか守山別院では「どこ、それ?」に
なってしまいますので、名古屋近郊にある別院ということで名古屋別院と言われていた
ようです。

瀬戸電が配布していたパンフレットから、東寺別院についての記述を抜粋してみます。

喜多山案内
瀬戸電氣鐡道株式會社

真言宗総本山京都の東寺名古屋別院(喜多山より十三丁)
東寺の名古屋別院は20か年の継続事業として七堂伽藍完成の目的を達すべき予定にて
着々計画せられ地鎮祭も立派に松永管長猊下御親修あらせられ古法に基づき最も厳粛に
執行せられ仮堂の建築が出来ました。

此処には蓬莱七福神布袋尊天を祭る御縁日は毎月7日で春季大祭は4月7日、秋季大祭は
10月7日である。(中略)

此の地は眺望と風致に富み名古屋近郊に比すべき場所もない。東には猿投の朝霞に、
南は長久手、猪子石、覚王山の翠岱から熱田の沖も見え、近くは白布を展べた矢田の
清流あり、西には模糊たる雲烟の間に金鯱は夕陽に輝き、勝川の清流には満帆の舟も見ゆ。
北は龍泉寺の多宝塔を隔てて小牧山、本宮山、尾張富士、遠くは江州の伊吹、加賀の
白山、木曾の御嶽に濃飛の山々も見ゆる高台である。

(中略)

東寺を知らざる人あるを遺憾とし、今回世潮人心の傾向に鑑み120万円余の予算を定め
別院を名古屋に近い俗界解脱の翠松園分譲地域内に定められ、広く十方信者の浄財を
求め目的の達成に努力を払うこととなったものである。

なお東寺には昔から特殊の浴室がある。これは天長年間弘法大師の御創建で垢穢浄除
身心保健を目的とし、蒸風呂、薬風呂、浄湯の三種あり今もそのまま毎日午前6時から
午後の6時まで衆人の入浴に供せらるるが、現在にては風紀上男女隔日にここを参籠して
入浴することとなり居れり、浴室付属の洗心寮は建坪200坪有余でいずれは別院にも
これらの御法湯の分湯もできるし、なおまた尾張三大弘法大師建設の準備中なり。

別のパンフレットには次のように書かれています。

蓬莱七福神御案内
瀬戸電氣鐡道株式會社

東寺名古屋別院は昭和2年5月地鎮祭を執行せられ、続いて昭和4年仮堂を建設せられ
たるものなるが(中略)

境内は喜多山一帯の翠松園文化住宅経営地内に属し、(後略)
引用終わり

ということで、昭和2年5月に地鎮祭を執り行い、20年計画で建設を始めたわけですが、
いくらもしないうちに世相が悪化し、計画は立ち行かなくなったものと思われます。

むしろ逆にこの立地は高射砲陣地、照空隊部隊から至近なため、危険極まりなく、
もしかしたら戦時中は陸軍に建物が徴用されていたかも知れませんね。
[ 2020/10/05 20:54 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)

東寺別院(2)

大森陣地要図トレース版
【大森陣地要図トレース】
 東寺別院のお話の続きに入る前に、戦時中の大森八龍のあたりを
眺めてみましょう。この図は私が守山郷土史研究会会報「もりやま」に寄稿するに
あたって作図した、高射砲第125連隊第4大隊第17中隊(大森照空隊)の布陣を
現在の地図にトレースしたものです。照空隊とは、文字どおり夜間、サーチライトで
天空を照らす部隊のことです。矢田、大幸の三菱発動機工場への夜間爆撃に
対する防衛網の最前線の役割を果たしていました。
現在の金城学院大学のあたりに関連施設がたくさん集まっていました。
このトレース図は戦後の米軍による空中写真と、これら国有資産の保全を
委託された守山町の資料から作成したものです。


大森陣地要図原図
【大森附近陣地敷地要図】
 これが冒頭のトレース図の元になった陣地要図です。
これは戦後まもなく、これら国有資産が奪略されないよう、国(財務局)が守山町に
対して保全を委託した時に、守山町の担当者が財務局で書き写してきたものです。
この書き写し地図の中で表題のすぐ下に「卍」の文字がありますが
わかるでしょうか?敷地という文字の間あたりの下になります。
これが東寺別院あるいは、湯場ではないかと思います。


大森陣地米軍空中写真20201004
【翠松園、大森附近の陣地展開図】
 この写真は、戦後まもなく米軍によって撮影された空中写真から翠松園、大森に
展開していた高射砲、照空の部隊を解析したものです。
敷地要図で記されていた「卍」はB~Cを結んだあたりやや上に写り込んでいます。
上の空中写真をダブルクリックして大きくしてご覧になられてください。
民家にしては大きすぎる建物がわかりますか?

喜多山で瀬戸電を降りて、二つ池の間の道を通り抜け、坂道をてくてくと歩きます。
道なりにしばらく歩くと、やがて道路は大きな建物で三叉路となっていますね。
昭和初期の瀬戸電のパンフで道が東寺別院まで通じているように描かれていたことと
よく合致しています。


東寺別院20201003
【蓬莱七福神の絵葉書】
 再び絵葉書に戻りましょう。
偶然なのか絵葉書の右上に写り込んでしまった東寺別院らしき建物の一部と、
たぶんそこへ向かって伸びているであろう広い坂道が見られますね。
さらに細かく見ますと、中央で人々が集まっている広場から左上に向けて階段道が
あるようです。それとこの広場から、幅の広い坂道を挟んで反対側にも道があるようです。
つまりこの広場と湯場は坂道と交差する道路の角に立地しているようにも見えます。
このあたりを手掛かりに、先ほどの米軍空中写真を眺めてみますと、たしかにB-C間に
坂道と交差する道があって、その北西角に建物がありますし、その建物から上(北)に
向かって狭い道まで写っています。



東寺別院米軍空中写真検討図20201004
【絵葉書の撮影ポイント】
 もう一度米軍空中写真と絵葉書を並べて検討をしてみます。
まず絵葉書の右上に写り込んでいた大きな建物の左端から、坂道にある交差点まで
赤い線を引きます。ついで絵葉書の湯場と思われる建物の角が手前になって、かつ
湯場が画面中央やや左になるように2番目の赤い線を引きます。その線が交わるあたり、
かなり大雑把ですが、そのあたりが撮影ポイントだと思われます。
[ 2020/10/04 10:36 ] お寺 | TB(0) | コメント(4)

東寺別院(1)

東寺別院20201003
【東寺別院】

関連記事:[ 蓬莱七福神 ] を含む記事

上の絵葉書には「蓬莱七福神 布袋尊天 喜多山 東寺別院」と書かれています。
現代国語とは逆向きに書かれているところに時代を感じますね。
蓬莱七福神は世の中の七福神ブームにあやかって、瀬戸電が沿線への利用客増加を狙った企画です。
昭和初期から太平洋戦争開戦までくらいの間が盛んでした。



20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(5)
【当時の瀬戸電のパンフレット】
戦前の瀬戸電沿線観光 と題して書いた2018年3月3日の記事で使った画像を再掲します。
元々はスカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光展で撮影した資料です。
これをよくご覧いただきますと、東寺別院が翠松園文化住宅の上(北の方角)に
描かれているのが見られます。そのわきに「布袋尊」と七福神の名称が添え書き
されています。
翠松園のどのあたりにあったのでしょうか?
なんとなく山の頂上に描かれていますね。
そして東寺別院から尾張三大弘法(御花弘法)へ向かう点線で描かれた山道もあります。



東寺別院位置1932年
【1932年の地形図】
1932(昭和7)年の地形図で翠松園のあたりを見たところ、お寺を現す地図記号「卍」が
ありました!喜多山からの道路はこの卍のところで終わっていて、卍の背後の稜線には
点線の山道があります。瀬戸電のパンフとよく似ていますね。
小幡緑地公園の池は当時も今もほぼ同じなので、赤い文字で池の名称を書いてみました。
さて、肝心の卍マークは今のどこなのでしょうか?
さすがに1932年の地図だけでは特定が難しいですね。



東寺別院位置今昔マップ
【今昔マップで重ね合わせ】
今昔マップを使って1932年の地図に現在の地図を重ね合わせてみました。
ちょっと見づらいのですが、金城学院大学の道を山頂まで登り切って左に曲がります。
すると91.6mの三角点があるようですが、その南側のようです。
これ以上細かく特定することは、昨今の個人情報保護などの観点からも、現在の
誰それさまのお宅あたりですになってしまいますので控えた方がいいですね。
ただ、この位置ってもしかしたら・・・
そうです!お地蔵さまがございますよね。

冒頭の絵葉書はおそらく、湯場の施設であろうと思います。
幅の広い道路は更に上に向かって延びています。
そして絵葉書の右上のかどにほんの少し写り込んでしまっている何となく大きそうな建物、
これが東寺別院なのでしょうか?その左側にある「吹き流し」は東寺別院の一部ではなくて、
もしかしたら小幡ヶ原射撃場で訓練に必要な風向を把握するための吹き流しなのかも
知れませんね。
[ 2020/10/03 19:01 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)

戦前の瀬戸電沿線観光

20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(1) 20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(4)
スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光
きのりんさんの「きのりん歳時記」を見て、尾張旭市のスカイワードあさひで
「戦前の瀬戸電沿線観光」展をやっていることを知って、見に行ってきました。
いつもはオートバックスとかに行くときに、バイパス道路を通り抜けるだけで、
桜の季節くらいにしか立ち寄らない場所です。こんな展示をされていたんですね。



20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(2)
蓬莱七福神
「戦前の瀬戸電沿線観光」と言えば蓬莱七福神巡りです。
蓬莱七福神巡りの観光案内は大変多く印刷されたようで、今でもときどき売りに出ています。
しかしこの写真のような記念品、今で言うグッズはほとんど見られなくなりました。




20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(3)
この写真の青いパネルはものすごく大きくして複製されたものです。
実際の大きさは、たぶん三つ折で、折りたたんだときの大きさは紙幣くらいだと思います。




20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(5)
龍泉寺さんあたりを拡大すると・・・
今日は偶然にもきのりん先輩と会場でバッタリお会いしました。
そのときにも話題になりましたが、龍泉寺さんの近くに楠公銅像と塩竃大神が記されています。
こんなのありましたっけ・・・という話題です。

ようく見ると赤い点線で道順が描かれています。
松河戸の春日井側の観音寺(弁財天)から庄内川の右岸(海に向かって右側)を北上し、
渡し舟で龍泉寺のふもとに上陸します。参考:渡し舟からの裏参道を考える(3)
松ヶ洞遊園を通り、鳥居が描かれていますがこれは神明社さんですね。
そこから御花弘法さんに行き、その次が塩竃大神となっています。
次の宝船授与は、現在の龍泉寺さんの駐車場北側にある回向院ではないかと思います。

塩竃さんですか、池のあたりにでもあったんでしょうか。
水神碑や観音堂がありますから、そうかも知れません。
楠公さんは難しいです。道順の点線の上には乗っかっていないので、いまのゴルフ場
あたりでしょうか?
あれれ、そう言えば御花弘法さんの東側ゲートのところに、今はすっかり藪の中ですけど
ゲートの北側に区画っぽいのがありますよね。
あれ、怪しくないですか?
それともゲートの守衛詰所でもあったのかな?高射砲陣地の歩哨とは位置が違うと思いますが。



20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(6)
御花弘法さん
きのりん先輩が、お大師さんの両脇にいる邪鬼の昔の写真をご希望でしたので、
守山町の広報誌昭和34年発行の「もりやま」から転載します。



20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(7)
守山郷土史研究会「もりやま」第22号より
こんな写真もありました。



[ 2018/03/03 22:53 ] 鉄道 | TB(0) | コメント(2)

法輪寺(12) 佐藤兄弟の墓

法輪寺縁起9(佐藤兄弟の墓)

佐藤兄弟及母公ノ墓
法輪寺縁起冊子に収録の写真は、先の山門・本堂の写真に続いて寺宝の写真となりますが、
それはまた機会を改めるとして、最終回の今回は「佐藤兄弟およびその母の墓」の写真で
締めくくります。

この写真に写っている墓所も、いかにも蓬莱七福神の事業のため、急いで整備しました
といわんばかりに小奇麗に整っています。
傍らに立つ初老の男性は今のところ誰なのかは不明です。法衣を纏っていないだけで
案外ご住職なのかも知れませんし、あるいはこの事業を推進するお立場の方かも
知れません。



法輪寺佐藤兄弟の墓現在
現在の佐藤兄弟、および母の供養塔
現在は山門をくぐり抜けて向かって左側に「供養塔」があります。
上の新旧2枚の写真を見比べると、ともに写真右側に斜めの木柱が見られます。
鐘突堂の四隅に有る柱です。
背景は随分スッキリしてしまいましたが、もしかしたら古来よりこの場所にあったのかも
しれませんね。

法輪寺さんはまだまだご紹介できておりませんが、ひとまずこの辺りで締めとさせて
いただきます。今年の守山探検隊のまちあるきイベントでは、この法輪寺さんを含めて
大森地区を散策します。檀家でもないのに、お寺さんの境内を単独でうろうろするのは
なかなか気がひけますが、こうした機会に是非ともご参加いただければと思います。
[ 2016/10/09 22:48 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)

法輪寺(11) むかしの山門、本堂

法輪寺縁起3(山門、本堂)

「法輪寺縁起」に収められている写真をご紹介します。
上の写真で、向かって右側には「山門」、左側には「本堂」と青いゴム印が押されています。
そして中央下には「愛知縣東春日井郡守山町大森字檀ノ浦法輪寺」とあります。



法輪寺絵はがき1

これは瀬戸電による沿線観光事業「蓬莱七福神」の絵はがきです
見比べてみると撮影位置が随分違っていて、山門前には大きな松の木があったこと、
そして寺名碑がその傍らにあることがわかります。
法輪寺さんには表の道路に面して二つの寺名碑があって、向かって右側には
「佛日山法輪寺」、左側には「法輪寺佐藤次信公佐藤忠信公舊跡」となっていますが、
この写真の当時からそれは同じということもわかります。

もっとも、この向かって右側の寺名碑は側面に「蓬莱七福神 福禄壽尊天奉安所」と
刻まれていることから、「蓬莱七福神」観光事業の一環として、絵はがきともども
同じ時期に整えられたものと見るべきでしょう。

[ 2016/10/08 10:02 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)

法輪寺(8) 昔の山門

法輪寺絵はがき1
法輪寺さんの昔の山門写真

絵はがきの右下に「蓬莱七福神 法輪寺 福禄尊天」と印刷がされています。
瀬戸電気鉄道が蓬莱七福神を沿線の名所としてPRしだしたのが、昭和4~5年頃と
されていることから、それに合せて撮影されたことと思われます。

山門および本堂は建て替えられているようです。
参道の右側には、現在は西国三十三所の観音堂になっていますが、この写真では
竹垣です。逆に写真左側は、現在は幟り旗が列を成していますが、写真では
屋根の一部が見えます。拡大してよくよく見ると、腰高になったお堂で、中に
仏像が安置されているような気がします。

ともあれ、山門の両脇にはくだんの石柱があります。
三界万霊等と山門禁葷酒が現在とまったく同様に建っております。
戒壇石(山門禁葷酒)のかたわらに寄り添う背の高いボードは何でしょうか?
現在はこの場所に由緒書があります。

法輪寺絵はがき1裏面
絵はがきの裏面

郵便はがきの体裁をとっています。
現在でもときどき古書店等で見かけますので、相当たくさんの数が瀬戸電によって
頒布されたことでしょう。

法輪寺絵はがき1裏面八木グラビア印刷
絵はがき裏面に印刷された版元
[ 2016/09/17 17:21 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)

法輪寺(6)

「蓬莱七福神御案内」を発行した瀬戸電気鉄道株式会社は、明治35年に
その前身となる瀬戸自動鉄道株式会社として設立され、明治38年に
営業運転を開始したそうです。

瀬戸電気鉄道株式会社と改称したのは明治39年12月で、先々回記した
ように名鉄との合併が昭和14年ですから、このパンフレットはその間での
発行ということになります。
ただパンフレットにある法輪寺さんの説明文がその間のある瞬間での事実かと
考えるといささか首をひねるところもあります。

たとえば人の名前や、事績の年代などは諸説あると疑ってかかるべきで、
いちいち気にしてはいられませんが、「大般若写本600巻」という具体数を
とらえると、明治24年の濃尾大震災で雨池の堤が決壊して、600巻の経巻の
うちかなりの数が流失したと伝えられていますので、もしかしたらこの
パンフレットの説明文は濃尾大震災の前に書かれていた由緒書を
元にした可能性もあります。

もともと大般若経が600巻というのは、玄奘が天竺より持ち帰った全巻が
600巻であり、600巻所持ということはフルコンプリートしている、ある種の
ステータスをひそかに誇示しているわけかと思います。
この600巻云々を含めて法輪寺さんの縁起物語の原型となったのは、
「尾張徇行記」に収められている「次信忠信遺像安置伝記」と言われて
いますが、このパンフレットの説明文もその流れなのかと思われます。

[ 2016/09/15 23:08 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)

法輪寺(5)

瀬戸電気鉄道発行の「蓬莱七福神御案内」という観光パンフレットには、
法輪寺さんの説明(縁起、由緒)は次のように書かれています。

仏日山と号し本尊は釈迦如来なり。貞観二年、大森の城主尾関氏天台宗の
一草庵を創建し之を正宗庵と称せしが、文治年間陸奥の人佐藤庄司の室
其子嗣信、忠信追福の為め京都に出て諸仏閣を参拝せんとす。
偶正宗庵の尼僧に縁ありしければ此処に留まり庵主謀って堂宇を建立し
天文年間、雲興寺の大雲和尚修理を加え曹洞宗となし、今の山号に改め
天正年間長久手の役、兵火に罹り荒廃せしを寛文年間澄然和尚新に
堂宇を建て此処に移せり。境内には座禅堂あり薬師如来を安置し、
佐藤兄弟の肖像は地蔵菩薩の脇立とし掌善掌悪の二童子に擬へて
兄を吉祥院八過嗣信、弟を清光院剣勝忠信と法号し尚お後日堂宇修理の
資として黄金を地下に埋め置く旨を本尊の蓮台に書残せり。
(寺宝)釈迦如来木像、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩は何れも運慶作にして、
他に大般若写本600巻、行基菩薩作薬師如来、弁慶の手簡一幅、嗣信・忠信の
木像其他種々あり。

編註:新字体への置き換え、句読点の追加など適宜しております。

[ 2016/09/14 22:44 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)

法輪寺(4)

守山区は東西に名鉄・瀬戸線が走っています。
かって社名を瀬戸電気鉄道と称した名残で、略して「せとでん」と地元民から
親しまれています。

その瀬戸電気鉄道株式会社が名鉄と合併する前ですから、
昭和14年までの話ですが、沿線に集客するための積極的な
活動の一つとして、守山区の寺社を「蓬莱七福神」になぞらえて七福神巡り
として観光PRを行いました。
そのときに、七福神のひとつ「福禄寿」にたとえられたのがこの法輪寺さんでした。

蓬莱七福神パンフレット

上の画像は瀬戸電気鉄道発行の「蓬莱七福神御案内」と書かれた
観光パンフレットです。後日また別枠で蓬莱七福神をご紹介したいと
思いますが、今回はその中から法輪寺さんに関連するところを書いてみます。

以下パンフレットより
福禄尊天 守山町大森の法輪寺に奉安す 大森駅より東三丁

福禄尊天は白鶴を伴う福神で南極老人星の化身にして北宗の嘉祐年中に
現われたる道士なりと云い或は福星、禄星、壽星の三星を合して一の神仙とし
是に鶴亀等を添えて目出度き者となしたるものならんとも言えり杖頭の
経巻は人の寿命を記せるものなりと伝え福禄円満に長命延壽の徳を与える
福神とせらる。
[ 2016/09/13 20:30 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)
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管理人:加藤
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