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観音寺(松河戸)

名称未設定 1

観音寺さまの位置

 守山区ではありませんが、川向こうの観音寺さまに行きました。買い物などで毎週のように近くを通り抜けてはいましたが、車を停めてお参りしたことは一度もありませんでした。今回の訪問は特別なにかの目的があったわけではありませんが、思いついたが吉日といういい加減な行動です。

 観音寺さまは近在では結構有名なのか、いろいろな組織や個人が紹介記事や情報を発信されています。誰が書いても似たようなものになっちゃいますが、できるだけ他の記事とは被らないように書いてみようと思います。

 観音寺さまの所在地は、Google検索のトップに「春日井市松河戸町5丁目9−6」と出てきます。それより下位の検索結果の中には「松河戸町824」と表示されているものも多くあります。どこかのタイミングで住居表示の整備が行われた結果なのでしょう。そういえばここ数年で区画整理事業が進んでいますね。ただまあ「春日井市松河戸町5丁目9−6」とわかったところで「えっ、どこそれ?」なのはよくある話ですが、小野道風の公園に隣接しているところと言われると「ああ、それならわかる」こともある話です。

 観音寺さまだけが目的でしたら、お寺の真ん前にある参拝者用の駐車場が至近距離で便利ですが、前述の小野道風の関連も見られるのでしたら、大きな広場と道風記念館の間にも駐車場があって、こちらの方が多くの人に利用されています。


蓬莱七福神絵葉書(観音寺)
【蓬莱七福神 弁財尊天 松河戸 観音寺】

 蓬莱七福神巡りは瀬戸電氣鐡道の沿線事業の一つです。この絵はがきは昭和初期に売り出されたと思われる一袋8枚組の絵はがきの1枚です。この観音寺さまを含めて七福神に比定された七か所の神社仏閣と、別格で宝船に当てられた龍泉寺さまを合わせた8枚組でした。瀬戸電の沿線と言っても、昔の人の健脚をもってしてもここ観音寺さまは遠いような気がしますし、もしかしたらJR勝川駅からのほうが近いの?とすら思えてしまいます。


龍泉寺土地鳥瞰図観音寺 「松ヶ丘の絶勝と古墳」 昭和6年、
龍泉寺土地株式会社 より
「龍泉寺土地松ヶ丘分譲地鳥瞰図」

 赤い太線は瀬戸電氣鐡道の線路で、さりげなくも小幡駅から支線が分岐しているのが描かれています。これは計画倒れになった幻の「龍泉寺鉄道」の予定線です。龍泉寺鉄道予定線の駅名らしきものを追うと、小幡-生玉-長命寺-松河戸-公園-御野立所-龍泉寺と続いています。

 あらためて左の絵図を見ると、その「松河戸」駅から観音寺さまへのルートが描かれているのがわかります。対してJR勝川駅からは、駅こそは描かれているもののルートはまったく示されていません。昔の人の健脚をもってしても遠いことには違わなかったようです。そんなことを書くと、笠寺道を通って尾張四観音の一つ笠寺観音さまに歩いて行ったのは遠くないのかと言われそうですが、遠いには違いがありませんが、他に現実的な移動手段が無かった時代には嫌でもなんでも歩かなくては仕方が無かったということですね。

 さて、この幻の龍泉寺鉄道ですがよくよく見ると、微妙にガイドウェイバス「ゆとりーとらいん」に似ていませんか?


観音寺20211103
現在の観音寺さま

 簡単ですが以上です。
リクエストがあったり、気が向いたりしたら続編を書きます。


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[ 2021/11/07 08:46 ] お寺 | TB(0) | コメント(0)

松ヶ洞東遊園(7)

松ヶ洞東遊園20210508

20180303 スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光(5)
スカイワードあさひ 戦前の瀬戸電沿線観光 より

前記事
松ヶ洞東遊園(6) [2021/10/18]
松ヶ洞東遊園(5) [2021/10/16]
松ヶ洞東遊園(4) [2021/05/08]
松ヶ洞東遊園(3) [2019/11/30]
松ヶ洞東遊園(2) [2019/11/05]
松ヶ洞東遊園   [2019/10/25]

 仮に、絵はがきの撮影場所と言いますか、「松ヶ洞東遊園」の立て看板の位置が小幡緑地の東端、つまりお花弘法さまの東側ゲートのあたりだとするとしても、そんな場所に立て看板を置く意味があるのか?これは皆様の共通した疑問だと思います。この現代ですら夜間ゲートはあっても小幡緑地の目立つような看板はないのですから。

 これについては一つの想像があります。
上に掲載の案内図は瀬戸電の戦前のパンフですが、自動車で行かれる道は赤色実線で、そうでない遊歩道、渡し船などは赤色破線で描かれています。注目したいのはお花弘法(尾張三大弘法)さまを中心に見たときの線の出方、線をたどったときの相手先です。いずれも赤い破線ながら3本の線が出入りしています。

 一番短い線は北西に出る道。向かう先は赤い実線で鳥居の手前です。鳥居とはかって龍泉寺さんの南側参道に実在した鳥居でしょう。元松洞人さまによれば伊勢湾台風で倒壊したというその鳥居だと思います。その手前で赤い実線=県道=龍泉寺街道に接続する遊歩道とは?これは想像するに、ガイドウェイ本社ビルの北側の小径、奥に行くと保育園横に出る小径で、県道とは押しボタン信号でつながっている小径のことでしょう。

 次にお花弘法さまから真上(北)やや右に出ている破線。これは現在の状況でいえば、お花弘法さまの後ろに回り込むと、ちょっと雑草や雑木がありますが、獣道のような小径が下っています。その小径にはお地蔵さまが並んでいたと思います。その小径はほどなくして整備された公園周回の遊歩道と交差します。

 そして3本目の赤い破線ですが、こちらは右下にのびていて、向かう先は東寺別院になっているのがはっきりと見て取れます。
戦前の瀬戸電沿線にはこの案内図のように「蓬莱七福神」巡りのルートがあって、布袋様にあたる東寺別院から宝船にあたる龍泉寺さままでのルートがありました。その途中にお花弘法さまが描かれています。従いまして東寺別院から来た時にお花弘法様の手前に「松ヶ洞東遊園」の立て看板があったとしても不思議ではないかと思うのです。
[ 2021/10/23 09:52 ] 公園 | TB(0) | コメント(0)

松ヶ洞東遊園(6)

20211017-DSC08404.jpg
ゴルフ場を背にお花弘法方向

前記事
松ヶ洞東遊園(5) [2021/10/16]
松ヶ洞東遊園(4) [2021/05/08]
松ヶ洞東遊園(3) [2019/11/30]
松ヶ洞東遊園(2) [2019/11/05]
松ヶ洞東遊園   [2019/10/25]

 小幡緑地本園の東端、ゴルフ場の正門を背にお花弘法(大仏)の方向を撮影しました。なかば強引にこの場所だと決めつけるから、何となく似た雰囲気に見えてくるから苦笑するしかないです。カーブミラーのすぐ向こう側が裏道と言いますか散策路です。階段道ありの自動車は通れない道です。カーブミラーの手前ガードレール側は松ヶ洞の集落へと下る自動車道です。

 カーブミラーの向こう側で、階段道の更に向こう側の茂みの中に楠公銅像がかってあったコンクリート製の囲み=玉垣があります。お花弘法へと向かう道路はすれ違いはできませんが、両側から生い茂る樹木がなかったらある程度の道路幅は確保できそうです。ゲートの少し手前で道路の勾配に変化があります。これがまた絵葉書に妙に似ているから、思い込みというものはどこまでいっても判断をにぶらせます。


3人いる?20211018
「ここ」に3人目がいるの?

心霊写真でもあるまいですが、囲みの中に3人目がいますか?
するとこの二人あるいは三人はどういう状況にあるのでしょうか?
服装から男女の性別までわかるのかな?
[ 2021/10/18 20:21 ] 公園 | TB(0) | コメント(4)

松ヶ洞東遊園(5)

松ヶ洞東遊園20210508

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松ヶ洞東遊園(4) [2021/05/08]
松ヶ洞東遊園(3) [2019/11/30]
松ヶ洞東遊園(2) [2019/11/05]
松ヶ洞東遊園   [2019/10/25]

 この絵はがきの撮影場所がどこなのか?決め手を欠いたまま「西」遊園のシリーズを連載しておりましたが、途中経過としてまだまったくわからないながらも、忘れないうちに考えをまとめておきましょう。



道幅人物5人分20211016

 たとえば道幅という考え方。絵はがきに写り込んでいる人物は大人ではないけれど幼児でもないだろう。身長を120センチとしてみると、柵から柵までの道幅は5人分に相当することから1.2mx5=6mもあることがわかります。道幅6メートルだと普通車のすれ違いが可能ですし、4メートルでも軽自動車ならすれ違えます。人物で道幅換算する場所が、元々の人物の立ち位置よりも手前(先の事例)なら道幅が広めに換算されますし、人物の向こう側で測れば狭い目に計算されます。しかし、4~6メートルと大幅に誤差を含んで考えてみてもこれは広い道路のようです。



龍泉寺周辺1946年
【1946年の小幡緑地周辺】

 昭和21(1946)年米軍撮影の空中写真からの切出しです。今では主要道である県道名古屋多治見線(龍泉寺街道)は変わりましたし、ガイドウェイバスの高架もできましたが、大規模な土地区画整理に巻き込まれていないので、見たいところや議論をしたいところはほとんど今と同じだと思います。
 県道と緑ヶ池の間にある広い道は、現在のスポーツセンター南側からお花弘法に至る道そのものです。道が広い理由は「軍用道路」としての性格でしょうか。緑ヶ池の上(北)の方に展開しているのは高射砲陣地と兵舎、弾薬庫などです。

 この空中写真に写っている中で松ヶ洞「東」遊園の地区内に4~6メートルの道路はどこかと考えると、たぶん2本かなと。1本目は現在のお花弘法さん(大仏さん)の前の道、もう1本は池をはさんでその北側に並走する松ヶ洞の集落を通り抜ける道くらいでしょうか。

 私のかってな妄想ですが、大仏さんの東側にゴルフ場との変則十字路がありますが、現代風に言いますと、その十字路に立って、大仏さん側のゲートの方角に向かって撮影したのかなと思います。いかがでしょうか?
 そして写真に写り込んでいる鳥居は大仏さんの北側を池の方へと下る遊歩道の分かれ道あたりでしょうか。
[ 2021/10/16 11:58 ] 公園 | TB(0) | コメント(2)

松ヶ洞西遊園(5)

西遊園絵葉書(1)構造物①

前記事
松ヶ洞西遊園(4) [2021/10/07]
松ヶ洞西遊園(3) [2021/10/03]
松ヶ洞西遊園(2) [2021/10/02]
松ヶ洞西遊園(1) [2021/09/26]

 前記事まででこの絵はがきの撮影地の推測をしてきました。今回からはここに写り込んでいる構造物に思いを巡らせたいと思います。シリーズ(1)で書きましたが、この絵はがきの主題は龍泉寺さまであろうと思われます。絵葉書の中央上に本堂、右に多宝塔の尖塔、左に開運閣が見られます。とくに開運閣については稿をあらためて書きますので、この絵はがきはその時にまた使うことになると思います。

 今回は構造物に思いを巡らすと言ってもそれら主題の部分ではなくて、場所としては手前の「はげ山」になります。
上の絵葉書の中央やや左下に赤い吹き出しで囲ったところがあります。この部分を拡大してみます。

西遊園絵葉書(1)構造物①拡大

 拡大してもハッキリしませんが、たぶん人工的な構造物に見えなくもありません。大きさは非常にいい加減ですが一坪くらいでしょうか?現代的に言えば小さ目な公衆トイレくらいに相当しそうです。立地としては左に急斜面になっています。



松ヶ丘の絶勝と古墳拡大20211009

「松ヶ丘の絶勝と古墳」から「龍泉寺土地松ヶ丘分譲地鳥瞰図」の部分拡大

 絵葉書には「はげ山」と小さな松の木ばかりで、この絵図に結びつくようなものは写り込んでいませんでした。ただ傾向的に見て、八十八ケ所弘法大師の左端か、その延長に相当しているような気がします。そのような場所に構造物としてありそうなものは、八十八ケ所弘法大師の中でも別格なもののお堂。トイレ、水桶、掃除道具入れでしょうか?あるいは庄内川を舟で渡ってきて山を登り切った場所近くだと思いますので、その関連のものかも知れません。

もりやま26号より20211009守山郷土史研究会会報「もりやま」第26号
「龍泉寺のお花弘法八十八ケ所」市江政之さん

引用させていただきますと・・・

この龍泉寺境内にあるお花弘法八十八ケ所は「瀬戸電鐵沿線案内」(大正十三年)に「お花弘法大師當山安置の八十八ヶ所お花弘法大師は、大師が日参の因縁により大正五年の春木村義豊翁が時の住職と計り先づ四国八十八ケ所を参拝し、而して後善男善女の寄付を仰ぎ、山中に大師の尊像を安置せんとせしも途中にて死亡せられたるより、其子てつ子は二世義妙と命名し父の遺業を継ぎ、残れる尊像を安置し総供養を為し、お花供養に因み毎月四目、十四日、二十四日を御命日とし、四月二十一日を御正当と定め、月拝信者月に増し日に多く非常の賑合をなせり」と記されている。

「松ケ洞西遊園は西山一帯の土地にて八十八ケ所のお花弘法大師を安置し、『グラウンド』もあり、金鯱を淡靄の中に把握し朦々たる人烟天を蔽ひ、白布を延べたる勝川には中央線の鐵橋や勝川、水分の橋梁は虹の如く眺望最も宜し」
これにより松ケ洞西遊園内にお花弘法八十八ヶ所巡りが造られていたことが分かる。

 「龍泉寺境内にある現在のお花弘法八十八ケ所は戦後山の開発で邪魔になった札所の石仏を、守山小幡の先述石黒籐三郎が取り持って現在の状態に配置して祀ったもので、一部を除いて札所番号順になっていない。」
・・・・引用ここまで

 市江さんが踏査された八十八ケ所弘法大師の配置図に赤い線でフリーハンドを入れてみました。「戦後山の開発で邪魔になった札所の石仏を・・・現在の状態に配置」なので多少違っているかも知れませんが、逆にこの赤ラインのあたりは開発には無関係の場所なので「龍泉寺土地松ヶ丘分譲地鳥瞰図」の状態をよく残しているとも考えることができるのかも知れません。

 そしてこの赤ラインの終点先に「木村義豊碑」と書かれた場所があります。そうです、この龍泉寺に八十八ケ所弘法大師を発願した人です。現存する場所は、仁王門前で霊園の方に左折し、下り坂をしばらく行くと大きく曲がり下るヘアピンカーブがありますが、そのカーブのすぐ外側になります。そしてその場所は庄内川から上がってきた変則五差路のすぐ傍らです。
構造物はもしかしたらそうした関連だったのかも知れません。

下の地図は再掲なのですが、市江さんによる踏査図に私が引いた赤ラインが割とよく合っていそうです。
昭和30年代の都市計画図




[ 2021/10/09 13:27 ] 公園 | TB(0) | コメント(0)
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