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松ヶ洞西遊園(4) [2021/10/07]
松ヶ洞西遊園(3) [2021/10/03]
松ヶ洞西遊園(2) [2021/10/02]
松ヶ洞西遊園(1) [2021/09/26]
前記事まででこの絵はがきの撮影地の推測をしてきました。今回からはここに写り込んでいる構造物に思いを巡らせたいと思います。シリーズ(1)で書きましたが、この絵はがきの主題は龍泉寺さまであろうと思われます。絵葉書の中央上に本堂、右に多宝塔の尖塔、左に開運閣が見られます。とくに開運閣については稿をあらためて書きますので、この絵はがきはその時にまた使うことになると思います。
今回は構造物に思いを巡らすと言ってもそれら主題の部分ではなくて、場所としては手前の「はげ山」になります。
上の絵葉書の中央やや左下に赤い吹き出しで囲ったところがあります。この部分を拡大してみます。

拡大してもハッキリしませんが、たぶん人工的な構造物に見えなくもありません。大きさは非常にいい加減ですが一坪くらいでしょうか?現代的に言えば小さ目な公衆トイレくらいに相当しそうです。立地としては左に急斜面になっています。

「松ヶ丘の絶勝と古墳」から「龍泉寺土地松ヶ丘分譲地鳥瞰図」の部分拡大
絵葉書には「はげ山」と小さな松の木ばかりで、この絵図に結びつくようなものは写り込んでいませんでした。ただ傾向的に見て、八十八ケ所弘法大師の左端か、その延長に相当しているような気がします。そのような場所に構造物としてありそうなものは、八十八ケ所弘法大師の中でも別格なもののお堂。トイレ、水桶、掃除道具入れでしょうか?あるいは庄内川を舟で渡ってきて山を登り切った場所近くだと思いますので、その関連のものかも知れません。

守山郷土史研究会会報「もりやま」第26号
「龍泉寺のお花弘法八十八ケ所」市江政之さん
引用させていただきますと・・・
この龍泉寺境内にあるお花弘法八十八ケ所は「瀬戸電鐵沿線案内」(大正十三年)に「お花弘法大師當山安置の八十八ヶ所お花弘法大師は、大師が日参の因縁により大正五年の春木村義豊翁が時の住職と計り先づ四国八十八ケ所を参拝し、而して後善男善女の寄付を仰ぎ、山中に大師の尊像を安置せんとせしも途中にて死亡せられたるより、其子てつ子は二世義妙と命名し父の遺業を継ぎ、残れる尊像を安置し総供養を為し、お花供養に因み毎月四目、十四日、二十四日を御命日とし、四月二十一日を御正当と定め、月拝信者月に増し日に多く非常の賑合をなせり」と記されている。
「松ケ洞西遊園は西山一帯の土地にて八十八ケ所のお花弘法大師を安置し、『グラウンド』もあり、金鯱を淡靄の中に把握し朦々たる人烟天を蔽ひ、白布を延べたる勝川には中央線の鐵橋や勝川、水分の橋梁は虹の如く眺望最も宜し」
これにより松ケ洞西遊園内にお花弘法八十八ヶ所巡りが造られていたことが分かる。
「龍泉寺境内にある現在のお花弘法八十八ケ所は戦後山の開発で邪魔になった札所の石仏を、守山小幡の先述石黒籐三郎が取り持って現在の状態に配置して祀ったもので、一部を除いて札所番号順になっていない。」
・・・・引用ここまで
市江さんが踏査された八十八ケ所弘法大師の配置図に赤い線でフリーハンドを入れてみました。「戦後山の開発で邪魔になった札所の石仏を・・・現在の状態に配置」なので多少違っているかも知れませんが、逆にこの赤ラインのあたりは開発には無関係の場所なので「龍泉寺土地松ヶ丘分譲地鳥瞰図」の状態をよく残しているとも考えることができるのかも知れません。
そしてこの赤ラインの終点先に「木村義豊碑」と書かれた場所があります。そうです、この龍泉寺に八十八ケ所弘法大師を発願した人です。現存する場所は、仁王門前で霊園の方に左折し、下り坂をしばらく行くと大きく曲がり下るヘアピンカーブがありますが、そのカーブのすぐ外側になります。そしてその場所は庄内川から上がってきた変則五差路のすぐ傍らです。
構造物はもしかしたらそうした関連だったのかも知れません。
下の地図は再掲なのですが、市江さんによる踏査図に私が引いた赤ラインが割とよく合っていそうです。